主の道を備える

<第1アドベント・教育月間>
和田一郎牧師 説教要約
2025年11月30日
イザヤ書40章1‐11節
マルコによる福音書1章1‐8節

Ⅰ. アドベント  待ち望む民の始まり

今日から、教会はアドベント(待降節)に入ります。アドベントとはラテン語の Adventus「到来」「来臨」という意味です。主イエス・キリストが来られたことを祝う、クリスマスを待ち望む期間です。そして、いつかまた再臨されるイエス様を待ち望み覚える期間です。アドベント。私たちは、誰を待ち望むのか? なぜ待ち望むのか?それを心に問いながら始まる「信仰の旅路」です。イエス様がこの私たちが住む地上に来てくださったことを祝うのがクリスマスですが、イエス様が地上に来られたことによって、今を生きる、私たちの信仰があります。それはとても素晴らしい「良い知らせ」です。その良い知らせのことを福音といいます。このマルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められています。その「福音の初め」としてマルコが先ず語っているのは洗礼者ヨハネのことです。イエス・キリストの福音はヨハネの活動から始まった、とマルコは言っているのです。

Ⅱ. 荒れ野に響く「悔い改めの声」

荒れ野に立ったヨハネは叫びました。3節「主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ」ヨハネは洗礼を授けただけではありません。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた」と聖書は語ります。ただ儀式を行ったのではなく、人々に神への立ち返りを迫ったのです。洗礼という儀式は、ヨハネが新しく考え出したものではなく、その前からすでにありました。もともとは、神の前に出るために、水に全身を浸して自分を清める、という行いから始まったものです。当時のユダヤ人の中には、世間から離れて、今で言えば修道院のような場で共同生活をしていた人たちがいて、そのグループの中では、水で身を清めることが、くり返し熱心に行われていました。しかし、一般的なユダヤ人にとって「洗礼」と言えば、それは異邦人のための儀式でした。異邦人、つまり他の神々を拝んでいた人が、主なる神を信じる者となり、イスラエルの民に加えられるときに受けるものだったのです。異邦人、つまり異教徒は、洗礼を受けてイスラエルの民の一員となることで、はじめて救いにあずかることができる・・・当時はそのように考えられていました。
ところがヨハネは、異邦人ではなく、ユダヤ人たちに向かってこう語りました。「あなたがたも、洗礼を受けなければ救われない。」これは、「ユダヤ人も異邦人と同じ罪人なのだ」という宣言でした。異邦人が悔い改めて洗礼を受けることで罪を赦され、救いにあずかるように、ユダヤ人であるあなたがたも、悔い改めて罪の赦しを与えられなければ救いにあずかることはできない。洗礼者ヨハネはそうはっきり告げ、悔い改めて罪の赦しにあずかる「救いのしるし」として洗礼を授けたのです。
このヨハネのメッセージは、「自分たちは異邦人とは違う。神に選ばれた民なのだから、救いは約束されている」と思っていたユダヤ人たちにとって、まさに頭をガツンと殴られるような衝撃でした。これまで大切にしてきた「選ばれた民」としての誇りや自負、優越感が否定され、見下していた異邦人と同じ立場に置かれてしまったからです。当然、そのような教えに反発し、敵対した人々もいました。特に宗教指導者たちの中に、そのような人が多くいました。洗礼者ヨハネが後に捕えられて首を切られたのも、ヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と告げた主イエスが十字架につけられて殺されたのも、まさにそのような人々によるものでした。
しかし、もう一方でこのマルコ福音書は、悔い改めを求めるその呼びかけに、真剣に耳を傾け、そこに神の真実を見出したユダヤ人たちがたくさんいたことも、聖書は伝えています。
5節「そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。多くの人々が、自分の罪をはっきりと指摘し、悔い改めを迫るヨハネの言葉に心を動かされました。ショックを受けながらも、「本当にその通りだ」と思わされたのです。そして彼らはヨハネのもとに来て、自分の罪を告白し、洗礼を受けました。彼らはこう認めたのです。「私たちは神に選ばれた民だからといって、安心してあぐらをかいていることはできない。自分は、神さまに赦していただかなければ救われない罪人なのだ」と。ヨルダン川の岸辺には人々が集まり、罪を告白し、洗礼を受けました。彼らは信仰の出発点に立ちました。福音を信じることは、悔い改めることと結びついています。
悔い改めとは、自分の過ちを反省することではありません。神の方に向き直り、神のもとに帰ることなのです。そしてヨハネは言います。「私よりも優れた方が後から来られる。私は履物のひもを解く値打ちもない。」つまりヨハネは、自分の使命は「救い主への備え」であることを知っていたのです。悔い改めは終点ではなく、出発点なのです。救い主イエスを心の中に迎えるための、心の扉をひらく行為なのです。

Ⅲ. 聖霊による洗礼

ところが9節以降で、イエス様はヨハネの前に現れ、ヨルダン川で洗礼を受けられました。罪のない神の子が、なぜ罪人の列に並ばれたのでしょうか?それは、私たちと同じ場所に立つためです。罪をもつ人間と同じ列にならんでくださったのです。救い主が罪人と一緒に並んでくださった。それが福音の始まりです。ヨハネが授ける洗礼が「罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼」だとすれば、イエスが授ける洗礼は、「新しいいのちを与える聖霊による洗礼」です。
ヨハネは「私は水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8節)と言いました。聖霊による洗礼とは、神が外からではなく、私たちの心の内に住まわれる救いです。ただ罪を洗い流すだけでなく、新しい命、新しい希望、そして神の霊を、この体に受け取って歩む道です。アドベントは、「悔い改めて赦される」だけでなく、聖霊の導きに生きる者へと変えられる準備の期間なのです。

Ⅳ. 争いの時代に、私たちは何を待ち望むのか

今、私たちが生きる世界はどうでしょうか。戦争のニュースが絶えません。国と国の対立、民族の争い、国家間の不信感。軍備拡張に向かって加速する世界。「平和よりも力が必要だ」と言われる時代。しかし、主イエスは何と言われたでしょうか?
「平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)
クリスマスとは、強さの時ではなく、平和が訪れる時です。神は、力ある軍王としてではなく、泣き声をあげる幼子として来られた。そこに神の真実がありました。神は「力ではなく、赦しによって世界を変える」と示されたのです。私たちは罪赦され、隣人を赦す者へと変えられました。そのようにして神様はこの世界を変えようとされています。
アドベントとは、ただ12月25日を待つ期間ではありません。それは、「神の平和が、この争いの時代に、もう一度訪れるのを待ち望む期間」なのです。
何を待ち望むのでしょうか?軍備の拡張ではなく、赦しの心の拡張です。敵を倒す力ではなく、敵を敬う勇気です。その力を待ち望んでいきたいと思うのです。神による和解と平和が、この世界と、そして私たちの心に訪れることを、待ち望むアドベントの日々としたいのです。
アドベントは、神様が人間と和解してくださった出来事に向かう期間です。ですから私たちも、他人からではなく「自分から和解を始める」一週間としていきましょう。この一週間、自分の生活の中で、少しずつ和解と赦しの第一歩を踏み出す者でありたいと願います。
お祈りをいたします。