救い主誕生の予告

<第3アドベント>
和田一郎牧師 説教要約
2025年12月14日
詩編89編2‐5節
ルカによる福音書1章26‐38節

Ⅰ. 六か月目に神の働きは静かに、確かに進む

今日の聖書箇所では「六か月目に」という言葉から始まります。この六か月とは、マリアの親戚であった祭司ザカリアの妻エリサベト(洗礼者ヨハネの母)が身ごもってからの期間です。不妊の女エリサベトは高齢だったので、すでに子を望むことすら諦めていました。その彼女が妊娠したことは、聖霊による神の力のしるしでした。その出来事は、人の目には静かで目立たないものでしたが、神の救いの歴史はこの時すでに確かに動き始めていました。そして六か月目、同じ天使ガブリエルが今度はガリラヤの小さな村ナザレへ遣わされます。エルサレム神殿ではなく、人々が注目する都でもなく、小さな田舎町で世界を変える知らせは、このように大きな舞台ではなく、私たちが「こんな場所で?」「こんな人に?」と思うところから始まります。その知らせは小さな村ナザレの少女マリアのもとに届けられました。マリアは当時12歳から14歳だったといわれています。当時のユダヤ社会における婚約・結婚の平均年齢がそうだったからです。ナザレは当時、人口数百人ほどの村で、旧約聖書には一度も登場しない無名の村でした。あとで弟子となるナタナエルは「ナザレから何の良いものが出ようか」(ヨハネ1:46)と言ったように、当時の人々はナザレを低く見ていました。つまりマリアは、社会的に特別な家柄でも名門でも権力層でもない田舎の少女でした。それは福音の象徴です。神様は人間の目には取るに足りない者を選び、そこに救いを始められる。これは聖書全体に流れる一貫した神の御心です。
なぜでしょうか。それは、救いの主導権は誰でもなく神ご自身だからです。神様は、私たちの能力や立場によって救いの計画を動かすのではありません。神が語られた言葉、約束を実現するために、神が選び、神が働かれるのです。

Ⅱ. 恵まれた方よ、恐れることはない

天使ガブリエルはマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。突然の天使の言葉にマリアは戸惑い、胸騒ぎを覚えました。それは当然のことです。もし私たちにこの出来事が起こったら、同じように揺れ動くでしょう。自分の人生が思いがけない方向へ向かおうとする時、人は必ず不安と恐れを感じます。
しかし天使は、マリアの恐れを見てすぐに言います。「マリア、恐れることはない」。神の呼びかけは、いつもこのような言葉から始まります。神は私たちの弱さをご存じで、恐れの中にある者に、まず「恐れることはない」と平安の言葉を与えられるのです。
続けて語られたのは、救い主イエスの誕生の知らせでした。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」この壮大な約束はマリアの人生を根底から揺るがすものでした。マリアは思わず尋ねます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」。これは疑いというより「理解できません」という正直な反応だったでしょう。
そのマリアに、ガブリエルは丁寧に答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」と。そして、マリアの親戚である年老いたエリサベトの身に起こっている奇跡を指し示します。「不妊の女と言われていた彼女が、もう六か月になっている」と。
つまり天使はマリアに、「神が働かれる時、それはすでに始まっている。あなたが見えるところにもその証拠がある」と示しているのです。そして、決定的な言葉が語られます。
「神にできないことは何ひとつない」。
 余談ですが、今年メジャーリーグで活躍したドジャースの山本由伸投手が、何としても負けるわけにはいかない一戦を前にして。「負ける、という選択肢はない!」と発言したことが話題になりました。実際、ありえないような連投で優勝を実現しました。その言葉を誰がどのように英語に訳したのかも話題になったのですが、優勝パレードでは本人から発言された言葉です。天使がマリアに言った言葉に重ねるならば「神にできないという選択肢はない」ということでしょうか。いや、マリアが言われた言葉は、それ以上に確信的な言葉です。神の意志として宣言するように言ったのです。「神にできないことは何ひとつない」。この言葉は直訳すれば「神の領域では どんな言葉(約束)も不可能にはならない」となります。つまり、神が語った言葉は必ず実現する。成就しない御言葉はひとつもないという宣言なのです。私たちは「全能の父である神を信じます」という信仰を告白しますが、神の全能とは「何でもできる力」という抽象的な概念ではなく、神が語られた約束は必ず実現する力のことなのです。

Ⅲ. お言葉どおり、この身に成りますように

天使の言葉を聞いた後、マリアは静かに答えます。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」。この言葉は、信仰の本質を短い一文で表現しています。マリアは、状況を軽んじていたわけではありません。未婚での妊娠は、当時の社会では深刻な事態でした。ヨセフが信じてくれるかどうかもわかりません。人々の非難、家族への影響、将来への不安、それらは容易に想像できることでした。
それでも彼女は、「この世の常識」よりも「神が語られた約束」を選びました。信仰というものは、神の約束とこの世の条件を天秤にかけ、有利な方を選ぶ生き方ではありません。神の言葉が実現することを求め、その身を委ねることです。そこには、不思議な平安があります。マリアの言葉には悲壮感がありません。苦難の中に飛び込む決死の覚悟ではなく「神が共におられる」という確信から生まれる静かな喜びと落ち着きがあります。私たちもまた、人生の岐路で問われる時があります。「どちらが安全か」「どちらが得か」ではなく、神の言葉が指し示す道を選ぶことができるか。その時、私たちが祈るべき言葉はマリアと同じです。
「主よ、お言葉どおり、この身に成りますように」と。

Ⅳ. 主の言葉は十字架と復活で成就した

神が語り、約束した出来事はナザレの村で終わったのではありません。その御言葉は、主イエス・キリストの十字架と復活によって成就しました。神の独り子イエスは、私たちの罪をすべて背負い、十字架で死なれました。しかし父なる神は、死の力を破り、イエス様を復活させられました。これこそ「神にできないことは何ひとつない」という言葉の最大の証です。そして今、神はその同じ言葉を私たちに向けて語っておられます。
「恐れることはない・・・あなたは恵まれた者である・・・あなたのために救い主を遣わす」。
アドベントに私たちが望むのは、ただ歴史を振り返って思い出すだけではありません。神の言葉が、今日も、私たちの上に実現し続けることを信じて歩むことです。神は私たちの人生にも語られます。あなたの恐れに、弱さに、憂いに、静かに確かに語られます。そしてこう告げられます。「神にできないことは何ひとつない。わたしの言葉は必ず実現する」。
このことが告げられたマリアは平凡な普通の女性です。「普通の生活者の代表」です。ナザレは地方の農村であり、マリア日々の生活の営みをする「普通の少女」でした。神様は、普通の生活のただ中にある娘に声をかけ、その人生を救いの歴史の中心に招いたのです。ですから、私たちがどんなに小さな所、名もなき者であっても、神はそこに目を留めてくださるのです。
マリアがその言葉を信じ、身を委ねたように、私たちもまたこのアドベントの時、主の言葉の実現を求めつつ歩んでいきたいと思います。
主よ、お言葉どおり、この町に、この教会に、この身に、あなたの御心が成りますようにと。
お祈りいたしましょう。