ペンテコステの出来事―聖霊を宿す教会の誕生
松本雅弘牧師 説教要約
<ペンテコステ礼拝> 使徒言行録2章37節-47節
2023年5月28日
Ⅰ. ペンテコステの出来事によって私たちが聖霊を宿す神殿となった
ペンテコステおめでとうございます。
主イエス・キリストが復活なさったあと40日間、弟子たちの前に現れ、ご自身が死に勝利し復活されたことを明らかにし昇天されました。そして昇天される際、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(使徒言行録1:8)と約束を残されました。
この約束の言葉に従って、弟子たちはエルサレムを離れず、祈るために集まったのです。そして昇天から10日後、主イエスの復活から数えて50日後の日曜日、集まっていた弟子たちの上に聖霊がくだった。その結果、石で造られた建物ではない、主イエスを信じるクリスチャンの群れが、聖霊を宿す、本当の意味での神殿に変えられた。それがペンテコステの出来事でした。
Ⅱ. コロナの影響?
ところで、聖霊の存在を肉眼で見ることが出来ませんし、また私たちの弱さから、私たちクリスチャンが、神の霊である聖霊を宿す神殿になっていることを忘れてしまうことがあります。
以前、クリスチャン新聞にショッキングな統計が掲載されました。日本のクリスチャンの平均寿命は3年弱だ、というのです。
洗礼を受けた後の寿命が3年ですから、3年経つと色々な理由で教会を離れてしまう。日本のキリスト教界ではよく「卒業クリスチャン」という言葉を耳にします。これが事実とすれば、大変なことですが、それだけサタンの誘惑は強く巧みであるということでしょう。そして今、私たちも大きな誘惑にさらされているように思うのです。
パンデミックが起こり素早くオンライン礼拝に切り替えた。しばらくしてコロナも落ち着き、「ウィズ・コロナ」の生活に移行し始めた。コロナを経験した私たちは、オンラインというツールを駆使し、今まで届かなかった方たちに御言葉を届けたりすることが出来て来ました。また祈り会や会議のオンライン化が進み、特に出席するための行き来の時間が劇的に短縮される経験をしています。ただ一方で、「受肉の信仰」と呼ばれる、私たちの信仰にとっての大切な「身体性」の側面、つまり体の問題、さらに「キリストの体」としての教会が持つ「共同体性」という主にある交わりの側面が、どうしても弱くなっていく危うさを覚えます。私たち教会が、大きな誘惑にさらされているように感じるのです。それはペンテコステの恵みである聖霊の命から私たちを切り離そうとする誘惑です。
私たちカンバーランド長老教会の信仰告白4.26に次のように書かれています。
「信仰者は、誘惑に陥り、恵みの手段をないがしろにすることによって、罪を犯し、神の怒りを招き、彼らに約束されている恵みと慰めのあるものを奪われてしまう。信仰者は、自分の罪を告白し、神に自分をささげて新しくされるまでは、安んじることはできない。」
Ⅲ. 聖霊降臨を経験した初代教会のクリスチャンたち
さて、ペンテコステをリアルタイムで経験し、聖霊をいただいたエルサレムの教会、初代教会の人々はどのように生活したかを伝えているのが、今日の使徒言行録第2章です。その中でも特に、43節以降は「信者の生活」と小見出しが付いていますが、実際に、当時の彼らがどのような信仰生活を送っていたかが伝えられています。ここに出て来る初代教会のクリスチャンたちの生活をまとめたのが、私たちが大切にしている「信仰生活の5つの基本」だからです。
この丸三年にわたるコロナの時期をへて、現在、私たち一人ひとりの生活習慣、とくに信仰生活の習慣を、「信仰生活の5つの基本」に照らし合わせて、点検する時期に来ているのではないかと思うのです。何故かといえば、聖霊降臨を経験し聖霊を宿す神殿となった弟子たちが、いよいよその聖霊の命をいただくために、命の源であるキリスト、ぶどうの木であるキリストにつながるために大切にした習慣が、ここに出て来る彼らの生活の様子、私たち高座教会にとっては、「信仰生活の5つの基本」です。
私たちが主イエスを信じ、洗礼を受けクリスチャンになったら、まず大切なことは、内に聖霊が宿ってくださっている「新しい霊的現実」に心の目が開かれることです。そして、その命が拡がる方向に向かって、主イエスと共に生きていくことです。
Ⅳ. 聖霊の命が拡がるように
ところが、洗礼を受け何年たっても、この事実に気づかないでいる場合があります。キリストの霊である聖霊が宿っておられる事実を忘れ、好き勝手をやってしまう。コリントの教会の兄弟姉妹がそうでした。この事実に信仰の目が開かれていませんでした。このことは本当に大事なことなのです。この信仰のリアリティーがなければ、信仰生活は続きません。続いたとしても、その生活は神を信じて喜んでいるのか、どうなのか全く分りません。本人に聞いても分りません。実感が無いからです。
では、どうしたらよいのでしょう?いつもお話していることですが、先ほどの「信仰生活の5つの基本」、信仰告白の表現を使うならば「恵みの手段」を、私たちの生活の中で大切にしながら、ぶどうの木であるキリストにつながり続けることでしょう。
イエスさまを信じ、クリスチャンとなった。それは私たちが聖霊を宿す信仰共同体である教会につながったということ、私たちの内側に聖霊が宿って下さった。聖霊においてキリストの命が与えられている。そして、その印が「受洗」です。
イエス・キリストを救い主、主と告白し洗礼を受けた時点で、もう聖霊によってキリストの命が与えられています。その命がもっと現れていく方向を求めて生きていくことが大切になるのです。そのために具体的にどうしたらよいのか。最後にそのことに触れて終わりにしたいと思います。
この点についてペトロは次のように語ります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」ここでペトロは、成長するように、「生まれたばかりの乳飲み子のように飲みなさい」と赤ちゃんをイメージさせながら、霊の糧である御言葉の求め方を教えます。そして今日のポイントはその次なのですが、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と勧めている点です。
ここで「混じりけのない」とある「混じりけ」って何でしょう。直前に出て来る、「一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口」です。こうした物が示されたらそれを捨てなさい。私たちの心の中に「混じりけ」/「不純物」があることを示されたのなら、それは捨てる。そのようにして心の中にスペースが作られると、そこに聖霊の命が拡がっていく。そのスペースを神さまは聖霊で満たしてくださるのです。
ある年の仮庵の祭りの日、人々はみな興奮していたのでしょう。良く起こることですが、祭りやイベントは盛り上がるのですが、その後どっと疲れが押し寄せることがあります。〈あれは何だったんだろう〉と思うこともあります。
主イエスは、そうしたことをよくご存じでした。ですから祭が最高潮に達した時に、興奮していた人々の耳に届くように、また心に届くように、大声で言われた。福音書記者ヨハネはわざわざその時の主イエスの様子をそう伝えているのです。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
キリストの許に行って飲むことです。そのままの状態で、私のところに来て休みなさい。飲みなさい。そして繋がりなさい。そうすれば、癒しという実をいただける、というのです。
私たちは、この同じ聖霊なる神さまをいただいている教会です。この聖霊の命がいよいよ成長し、この地域の人々に福音を持って仕える宣教の教会として歩むために、まず私たち一人ひとりが、「信仰生活の5つの基本」を生活の土台にすえてキリストにしっかりと結び付き、そして、神さまから与えられている大切な使命を教会活動の柱としながら、今日の聖書に出てくる初代教会のように、各世代の人々がキリストにあって、その違いを乗り越え、共に喜び集える教会であったように、そのような高座教会を主が御建てくださるようにと祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。
