ただ、キリストの言葉を

宮井岳彦牧師 説教要約
ダニエル書6章10-23節
ルカによる福音書7章1-10節 
2023年5月14日

Ⅰ. 充満する言葉

高座教会には私にとって「初めまして」の方も「お久しぶりです」の方もいらっしゃいます。もう30年あまり前、当時エルサレム館という木造の礼拝堂でささげていた教会学校の礼拝に出席したことが高座教会との出会いでした。その後ボーイスカウトや中学科、高等科に通い、1994年にこの礼拝堂で洗礼を授けていただきました。学生時代をここで過ごしました。伝道者として、説教者として生きていきたいという志を与えられたのも、この高座教会での出来事です。高座教会で出会った女性と、この場所で結婚しました。神学校を卒業し、伝道師に任職されたのも牧師の按手を受けたのも、この礼拝堂です。私は高座教会で育てていただきました。それは、この場所でいくつもの御言葉経験をしてきたということを意味します。聖書を通して私たちに語りかけるキリストの言葉を聞き、御言葉を通してキリストと出会ってきました。
1節に「イエスは、民衆の聞いている所でこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあります。今日のところの前までを見ると、主イエスの長い説教が記録されています。「平地の説教」と呼ばれることもあります。主イエスが語った御言葉を人々が聴いた。御言葉に満たされた。この「民衆の聞いているところでこれらすべての言葉を話し終えてから」という部分を直訳すると、このようになります。「民衆の聴覚の中へ、彼(イエス)は彼のすべての言葉を満たしたので…」。壺に油を満たして溢れてくるように、私たちの聴覚や耳の中に主イエスがご自分のすべての言葉を満たしてくださった。私たちの耳にキリストの言葉が溢れている。キリストが御言葉を語り、私たちの聴覚がそれに満たされるたら、新しい出来事が始まります。御言葉が出来事を起こす。

Ⅱ. 主イエスの驚き

ところで今日の御言葉を一気に最後まで進んでいくと、このような主イエスの言葉が書かれています。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。」ここに出てくる百人隊長の信仰をご覧になって、主イエスが驚いている。「イスラエルの中でさえ」と言っています。百人隊長は外国人でした。カファルナウムにはヘロデ・アンティパスという領主が住んでいた。恐らくこの領主に雇われた傭兵たちの部隊です。ですから恐らく外国人と言ってもローマ人でもない。辺境の地で、ユダヤの領主の私兵などをローマ人はしません。信仰の民イスラエルの一員でもなく、当時の世界の覇者ローマ人でもない。別の国から来た外国人。しかし彼が見せた信仰に主イエスは驚かされました。主イエスは驚いて「イスラエルの中でさえ」と口にしておられる。注目すべきは「イスラエル」という国名を使っていることです。普通、この時代、聖書の舞台になっているこの国を指す名称は「ユダヤ」です。「イスラエル」というと、政治的な国名と言うよりもむしろ「神の民」「信仰の民」という響きが強くなります。「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。」神の民イスラエルの中でさえ見たことのない信仰を、外国人のこの人が見せてくれた!主イエスがそう言って驚いておられるのです。
この百人隊長自身も、自分はキリストの御前に出ることのできない人間だと思っていたようです。「私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」と彼自身が言っています。自分は神さまから遠い人間だと思っていた。そうであるならば、主イエスが驚く彼の信仰とは一体何だったのか?
この人は「百人隊長」でした。百人の部隊の隊長です。百人の部下がいました。その内の一人が病気で死にかかっていた。彼の百人の部下は、隊長である彼の命令によって動きます。彼が「行け」と命じれば命令通りに行きます。彼が「止まれ」と命じれば、その命令通りに止まります。しかも隊長とその部隊ですから、戦場が主な職場です。彼が「行け」と命じるか「止まれ」と命じるかによって兵士の命が左右されます。この人は百人隊長としてそういう権威を委ねられていた。その権威をふるってイエスを呼びつけてやろう、とは百人隊長は考えませんでした。むしろ、自分はお迎えするのにふさわしくない。私は神から遠い者に過ぎない。私はキリストの権威に従う。キリストの言葉の権威を信じる。キリストの言葉には私の大切な仲間の命を救うことができる権威がある。御言葉にはその力がある。私はそれを信じる。このキリストの言葉への信頼こそ、この人の信仰だったのです。

Ⅲ. ふさわしくない者を

この百人隊長が主イエスと出会ったのは、彼が人生順風満帆ではないときでした。自分の大切な部隊の一人であり、部下、僕である人が病のために死にそうになっていました。大切な仲間が死んでしまうかもしれない。その辛さは私たちにも想像することができます。しかしそんな時、この人は孤独ではありませんでした。彼のためにユダヤ人の長老たちが主イエスに執り成してくれました。しかも長老たちは主イエスに熱心に頼んでくれています(4節)。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」とまで言ってくれた。彼がこれまでユダヤ人に親切にしてきたこと、その信仰生活を助け、会堂を建てたことをユダヤ人たちはちゃんと覚えていてくれた。そして、外国人、よそ者である自分のことを心配して助けてくれて、主イエスに執り成してくれた。ありがたいことです。心に染みたと思います。しかし、そうであるからこそ、百人隊長は自分のふさわしくなさを痛感していました。私は主イエス様の御前に出るのにふさわしくない。わが家にお迎えできるような人間ではない。だから、たった一言、御言葉を下さい…!
この人は私たちの祈りの先頭に立っています。キリストの御前にふさわしくない私の。それなのに仲間が支えてくれて、祈ってくれて、キリストに執り成してくれた。そういう仲間の祈りに助けられて、私たちも祈ります。「ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください!」私たちも、私たちの大切な仲間や愛する人のために祈る。助けてください!救ってください!キリストの言葉を響かせてください!あなたの御言葉の権威によって、どうか助けてください!
キリストは必ず応えてくださいます。御言葉をもって応えてくださいます。キリストが御言葉を語るとき、新しい出来事が起こります。私たちは新しくされます。御言葉が私たちを新しくする。

Ⅳ. 御言葉が出来事を起こす

私が学生の頃、伝道者として生きていきたいという祈りを温めていた頃です。石塚先生の牧師館で、「御言葉は与えられたか」と問われたことがありました。そしてご自身が神学校に行ったときや結婚を決めたときなど、折ある毎に与えられてきた御言葉を紹介してくださいました。御言葉が起こす出来事によって、道を歩んでこられたのです。
数ヶ月前にさがみ野教会で葬儀がありました。教会員のご家族が亡くなったのです。逝去したご本人は、最後まで洗礼はお受けになりませんでした。しかしご家族の信仰がずっとこの方と共にありました。その祈りに支えられていました。亡くなり、彼が葬られたお墓の墓碑銘は「我らの国籍は天にあり」でした。洗礼を受けていないこの方ご自身がこの墓碑銘を選んだのです。キリストの御言葉の出来事はどんな人にも起こります。必ず、キリストの言葉は出来事を起こす。だから私たちはそのために、一人の人のことを覚えて祈るのです。
そもそも、神さまが「光あれ」とおっしゃったから光が生まれました。神さまが「大空あれ」とおっしゃったから、大空が生まれました。そして神さまが「宮井あれ」とおっしゃったから私も生まれました。皆さんもそうです。私たちは神さまの御言葉の出来事によって命を与えられ、今ここに存在しています。同じように、キリストは御言葉を語ってくださいます。私たちに命を与え、私たちを救う御言葉を。キリストは離れた場所にいる百人隊長の僕を、ただ御言葉によって救ってくださいました。そうであるならば、キリストが私たちをも御言葉によって救うのに一体どんな不都合があるでしょうか?何一つないのです。キリストはその言葉をもって、あなたを救ってくださる!だから安心して、キリストを信じましょう。安心して、キリストの命の言葉を信じましょう。