キリストの足跡
宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書53章7‐10節
ペトロの手紙一2章18‐25節
2025年7月20日
Ⅰ. 足跡を辿り、やがて山頂へ
主イエス・キリストは、私たちを広い場所へと連れ出してくださいます。自由な、開かれた、息を吸うことのできる場所へ。それは、キリストご自身が掛けられている十字架の前です。私たちが十字架にかけられたキリストのお姿を仰ぐことのできる場所です。
小学生の頃、父と二人で何度か山登りをしました。父は若い頃山登りが好きで、私の「岳彦」という名前もそのようなところから付けられました。二人で山に登って、山小屋で一泊するということもありました。まだ小学生だった私のためにそれほど険しくない山を選んでくれてはいましたが、私にとってはひたすら辛い道のりでした。
あるとき、父がアドバイスをしてくれました。私のすぐ前を父が登っている。だから、どこを歩いているかをよく見て、その足跡に自分の足を重ねて歩いたらいい、と。私のように山登りに不慣れな者は悪いところに足を置いてしまいがちです。石が転がっていたり、崩れやすい場所だったり。歩きにくいし危険です。しかし父は安全で良い場所を選んで歩いている。その足跡を辿るのが私にとってもいちばん安全で、楽な道です。
そうやって登っていくと、やがて山頂に至ります。解放です。自由です。広々とした場所です。ゆっくりと息を吸うことができます。
21節にこのように書かれています。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」私たちの前にはキリストの足跡があります。その足跡に私の足を乗せて歩くために。キリストが私たちの一歩前を歩いて、足跡をつけてくださっている。
Ⅱ. 召し使い
今日の最初のところ、18節は「召し使いたち」と呼びかけて始まっています。この「召し使い」というのは、「家の仕事をする人」のことです。家事労働や子どもの家庭教師、中には医者や音楽家もいたそうです。
どうしてそんなに多彩で多才な「召し使い」がいたのでしょうか。この頃、ローマの国は世界一の大帝国で、いろいろな場所で戦争をして領土を広げていました。敗戦国の市民を捕虜として連れ帰り、その人たちを「召し使い」にした。ですから戦争に敗れる前までは裕福だった人もいれば、知識階級の人もいました。それが敗戦と共に不本意にも召し使いとなってしまったのです。
それでも善良な主人が相手ならば、まだマシです。しかし当然、中には気難しかったり、ひねくれたり、無慈悲な主人もいます。自分よりも無能な主人から不当な苦しみを受ける人もたくさんいたでしょう。自分は悪くないのに責められ、なじられ、嫌みを言われ、怒鳴られる人もいたのではないでしょうか。
そして、そんな思いをしながら生きざるを得ない人にもキリストの福音が届けられ、信仰が与えられ、キリスト者になったのです。今日の御言葉はそういう人に語りかけられています。
私はここを読んで、同じだと思いました。私たちの生活とほとんど変わるところがないと思います。「召し使い」ということではないにしろ、私たちも人の下で働いています。勤めていれば上司がいるし、商売をしていれば気難しい客もいる、医療機関にはひねくれた患者も来るでしょう。私たちの周囲には「無慈悲な主人」がいくらでもいます。
この「召し使い」たちは、国が戦争で敗れて不本意ながらここまで連れてこられました。思ってもみなかった運命を呪い、どうしてこのような目に遭うのかと呟いたかもしれません。今の言葉で言えば、「親ガチャ」「上司ガチャ」「担任ガチャ」に外れたとSNSで憂さを晴らすしかない、という気持ちに似ているかもしれない。
ところが、聖書は私たちの感覚とはかなり違うことを語りかけてきます。「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、気難しい主人にも従いなさい。不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」主人がいい人かイヤな人かにかかわらず、例え納得のいかない目に遭っても、それを耐え忍びなさいと言うのです。
しかしそう言われても…途方に暮れてしまいます。今日家に帰って家族から「牧師はどんな話をするの?」と尋ねられて、「不当な苦しみでも耐え忍びなさい」と言われたなんて答えたら、もう教会はやめておけと言われてしまうかもしれません。そうでなくとも、私たちはこういう聖書の言葉を一体どうやって受けとめたらいいのでしょう?
Ⅲ. キリストは、自ら…
そうやって途方に暮れて下を向いて立ち止まる私たちの前に、一つの足跡があることに気付きます。キリストこそ同じ「召し使いの山」を登っておられるのです。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け…。」ここに「キリストも」と書いてあります。ですから私たちの目をキリストに向けましょう。
キリストはいかなるお方なのか?「『この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。』罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。」気難しく、ひねくれた主人に従い、それでも善を行い、しかし打ち叩かれる。こんなに理不尽なことはありません。ところがキリストがしてくださったことはそれどころではありません。主イエスは「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず」に、キリストが「自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。」
ここに「自ら」と書いてあります。今、この「自ら」という小さな言葉が私に染みこんできています。私が不当な苦しみを受けていると呟いているとき、何が起こっているか?「あの人が悪いから、私が怒るのは当然だ。」「あの人に原因があるから、こっちにだって何かしらを言う権利がある」などとぐるぐる考えている。そんな時、私はとても受け身です。全部相手のせい。あんなことを言われたから。こんなことされたから。そもそも環境が悪い…。そうやって、自分では何一つ責任を負おうとはしません。最後は自分の運の悪さを呪うしかありません。しかしキリストは、ご自分の責めは一つもないのに、御自ら私の重荷を十字架の上で負ってくださいました。キリストが自らブツブツつぶやいている私を捕らえる罪を引き受けてくださった。私たちを呪うこともなく、却って愛しぬいてくださった。そのキリストのお受けになった傷が私の罪の病を癒やすのです。
キリストは十字架にかけられた。それは、私たちが「義に生きるため」です。キリストのお受けになった傷にこそ義があります。ここに本当の正しさがあります。まことの義は、私の怒りや呟きの中にはありません。十字架にかけられたキリストのお姿にこそ、私が生きるべき義があるのです。
Ⅳ. あなたがたは、このために召されたのです
「あなたがたは、このために召されたのです。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」
ここに「このために召された」と書いてあります。「このため」、それは私たちがキリストを真似るため、ということです。私たちがキリストの足跡を辿るためです。私たちがキリストの真似をして、他人に仕えて生きるためです。隣人の罪を負うために私たちは召されました。
「召された」というのは、「呼ばれた」ということです。私たちは、今生きているこの場所に神に呼び出されました。この職場に、この家庭に、この地域に、神があなたを召したのです。それは私たちがその場で十字架にかけられたキリストの足跡に従って生きるためです。隣人に仕え、愛するためです。その人が善良で寛大であっても、そうではなく気難しく、ひねくれ、無慈悲であったとしても、私たちはその人に仕える。それがキリストが私にしてくださったことだからです。
私たちは自由です。私たちは周りにいる誰かのせいではなく、環境のせいではなく、まして運命のせいではなく、自ら主体的に仕え、隣人に仕えて生きていきます。キリストが私にしてくださった愛を真似て。私たちがキリストを愛し、キリストを畏れ、キリストがしてくださったように隣人を愛し仕えるために、私たちの前にキリストの足跡が刻まれています。
