荒れ野を生きる
和田一郎牧師 説教要約
2025年7月27日
イザヤ書11章1-9節
マルコによる福音書1章12,13節
Ⅰ. 「追いやられた」その先に
今日の聖書箇所の最初には「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった」と書かれています。以前の新共同訳では「送り出した」と訳されていましたが、原文のニュアンスに近いのは、現在の聖書教会共同訳にある「追いやった」という言葉です。これは、ただ「出発させた」いうニュアンスではありません。「無理やり進ませた」といった強い表現です。
では、「それから」とは、何のあとだったのでしょうか?その前にあったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面です。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けると、天が開かれ、聖霊が鳩のように下ってきました。そして天からは「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」だ、という神の声が聞こえてきたのです。まさに祝福に満ちた、素晴らしい瞬間でした。ところがその直後「それからすぐに」イエス様は聖霊によって荒れ野へと追いやられたのです。神の栄光と祝福に包まれた場所から、誰もいない厳しい荒れ野へ。この急な変化には驚かされます。
荒れ野とは、単に砂や岩が広がる自然の厳しい場所というだけではありません。旧約聖書では、荒れ野は神と人との関係を深く象徴する場所として描かれています。たとえば、イスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでの間、荒れ野で40年を過ごしました。そこは誰かに頼ることができず、ただ神に信頼するしかない場所でした。
けれども、その荒れ野の中でこそ、神の臨在が強く感じられたのです。日中は雲の柱が、夜は火の柱が彼らを導き(出エジプト記13:21)、神はマナやうずら、岩から水を与えてくださいました。つまり、荒れ野は神の奇跡や恵みが現れる場所です。神が共にいてくださることを実感する場所でもあったのです。
イエス様が導かれた荒れ野もまた、人が住めない厳しい環境で、野獣が住むような危険な場所でした。それにもかかわらずイエス様は聖霊によってそこへ「追いやられた」のです。神に愛されているはずなのに、なぜそんな苦しい場所へ行かなくてはならないのか――それは、私たちも直面する問いです。信仰を持ち、神の愛を受け取ったはずなのに、病気や孤独、誤解や失敗、家族の悩みなど、次々と荒れ野のような現実が訪れる。そのとき、思わず「神様、どこにおられるのですか」と叫びたくなります。
でも、今日の箇所が教えてくれるのは、神の愛とは、荒れ野を避けさせる愛ではなく、一緒に荒れ野を歩んでくださる愛だということです。神の子であるイエス様ご自身が、私たちと同じように荒れ野を歩かれたのです。だからこそ、私たちは「神は私たちの苦しみを知らない方ではない」と希望を持てるのです。
Ⅱ.荒れ野という試みの中で
マルコ福音書では、イエス様が荒れ野で「サタンの試みを受け」たと簡潔に書かれています。他の福音書、たとえばマタイやルカでは、誘惑の内容が具体的に語られています。石をパンに変えさせようとしたり、神殿から飛び降りるように求めたり、世界の栄光を差し出す代わりに礼拝するよう誘惑したりという場面です。
しかし、マルコはその内容に触れず、ただ「試みを受け」たとだけ記します。これは、イエス様が受けた誘惑が私たちの経験と繋がっていることを伝えているのではないでしょうか。私たちもまた、信仰の中でさまざまな誘惑に出会います。信仰を持つ意味がわからなくなるような思い、神様が見えなくなるような出来事、信仰を捨てたくなるような心の揺れ。それらはすべて、サタンの誘惑と言えるかもしれません。
社会の中で「教会に行っている」という信仰が理解されず、孤立感を覚えるときもあるでしょう。また、信仰を持っていても人生がうまくいかず、神様を疑ってしまうこともあります。さらに厄介なのは、外の問題よりも、私たちの心の中で起こる「疑い」「疲れた」「傷ついた」「失望した」といった思いです。誰かの一言に傷つき、信仰の仲間との関係に躓き、自分の弱さにがっかりする・・・。そういったことが誰にでもあります。そんな時こそ思い出したいのは、イエス様も試練を受けられたという事実です。しかも、マルコは「勝った」「克服した」とは書かず、「試みを受けた」とだけ記しているのです。これは、イエス様が私たちの苦しみに共にいてくださる方であり、完全に理解してくださる方であることを、優しく語っているのです。
Ⅲ.信仰と働き
羽仁(はに)もと子という方がいました。『婦人之友』という生活雑誌を創刊した信仰者です。
羽仁もと子は女学校時代に洗礼を受けましたが、本当の意味で信仰が深まったのは、仕事や家庭での試練を通して神の臨在を確信した時でした。決定的な転機となったのは、次女を病で亡くしたことでした。忙しい仕事の中で十分に介抱できぬままにわが子を失い、涙と嘆きの中でもと子は「その魂が神のもとに帰った」と実感し、初めて霊的な世界の確かさを信じるようになります。もと子はこの出来事を通して、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」生きることの意味を見出し、人生観の基盤を「この世の成功」から「神の国の実現」へと転換していきました。
さらに、牧師・植村正久との出会いが彼女に新たな信仰を開きました。植村は信仰を実生活の中で具体的に生きる道を教えました。この導きを受けて、夫・吉一と共に祈りの生活を深め、『婦人之友』の出版という形で、信仰を社会に証しする実践を始めます。羽仁もと子にとって信仰とは、祈りを通して神に応答し愛に生きることでした。彼女の人生は、荒れ野のような苦難を通して神の愛に出会い、その愛に応えることによって社会に仕える歩みへと変えられていったのです。その後『婦人之友』「自由学園」「全国友の会」は今もなお私たちに「現実から離れない信仰」の大切さを語りかけています。
Ⅳ.荒れ野が変えられる
13節の後半にはこうあります。イエス様が荒れ野で「野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
野獣は、荒れ野の危険や予測できない恐怖を象徴しています。信仰を持っていても、私たちの人生には野獣のような問題が現れます。突発的なトラブル、恐ろしい病、不安な人間関係など。これらは私たちの心をおびやかし、力を奪おうとします。けれども同時に「天使たちが仕えていた」とも書かれています。つまり、イエス様は苦しい状況の中にありながらも、父なる神様の守りと助けを受けていたのです。このことは私たちにとって大きな慰めです。
私たちも、信仰の歩みの中で「もう嫌だ、もうダメだ」と感じる時があります。どうにもならない状況、孤独、怒り、不信――そうした中で押しつぶされそうになります。でも、神様は決して私たちを見捨てないということです。たとえ目には見えなくても、天使のような助けを私たちのそばに送ってくださいます。荒れ野のただ中にも、神は共にいてくださるのです。
イザヤ書11章2節には、主の霊がある人物にとどまるという預言があります。「知恵と分別」「思慮と勇気」「主を知り、畏れる霊」がその人に宿ると。これは、バプテスマを受けたイエス様の姿と重なります。神の霊がイエス様にとどまり、聖霊に導かれて歩みを始められたのです。
マルコがイエス様の荒れ野での経験を福音書の冒頭に置いているのは、それが私たち信仰者の歩みと深く関係しているからです。洗礼を受け、信仰の道を歩み始めた者にとって、試練や誘惑は避けられません。でも、その中でこそ、神の愛と導きが私たちに注がれているのです。
また、イエス様が野獣と共におられたという姿には、意味があります。イザヤ書11章6節には、「狼が小羊と共に宿る」といった平和の預言があります。つまり、イエス様の荒れ野での姿は、神の平和が現れ始めたしるしなのです。
イエス様が荒れ野で試みを受け、野獣の中にいて、天使に支えられたこの姿は、私たちにとって「荒れ野が変えられる」「人生の荒れ野が変えられる」という希望です。信仰によって、苦しみや不安の中にも神の平安があることを、私たちは知ることができるのです。
お祈りいたします。
