神の国をつくる人

和田一郎牧師 説教要約
2025年8月3日
イザヤ書2章4,5節
マルコによる福音書 1章14,15節

Ⅰ.神の「時」が満ちた

今イエス様は、活動の最初にこう宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」このひと言に、イエス様の宣教のすべてが込められていると言ってもよいでしょう。「時は満ちた」という言葉には、特別な意味があります。ただ「時間が経った」ということではありません。「時」とは、聖書の言葉で言えば「カイロス」、神様がご自身の計画の中で定められた、意味ある決定的な時を指します。
今年は第二次世界大戦から戦後80年の節目の年になります。私たちの日本の歴史にとって、1945年8月6日と9日の原爆の日は「カイロス」だったといえるかもしれません。私たちが自分たちの歩みを深く問い直す「神の時(カイロス)」とも言えるでしょう。なぜ日本は戦争を始めてしまったのか、あれほどまでに多くの命を犠牲にしたのか。その中で日本の教会は、何を語り何を語らなかったのか。権力におもねり、戦争協力をしてしまった歴史があります。このような時代の中で、教会もまた「悔い改め」が求められているのです。
神の「時」が満ちるとは、歴史や人生が神の導きの中で新しい節目を迎えるということです。イエス様が宣教を始められた時、人々はまだ気づいていませんでした。でも神様は、もう始めておられたのです。静かに、しかし確かに、新しい救いの扉が開かれたのです。
イエス様は続けて、「神の国は近づいた」と語ります。「神の国」というと、どこか遠くにある天国のように思えるかもしれません。でもイエス様がおっしゃる「神の国」は、神様が治めてくださる世界、つまり「神のご支配」が始まっているという意味です。
この「ご支配」は、平和と正義と愛をもって治めてくださる支配です。神様は私たちの生活のただ中に入り、傷ついた心を癒し、希望の光をもたらしてくださる方です。「近づいた」というのは「今ここに来ている」という、現在進行形の知らせです。神様の国は、今すでにあなたのそばに来ている。手を伸ばせば届くところにある。そう語りかけてくださっているのです。
この「近づいた」という言葉には、私たちが応答しなければならないというメッセージが込められています。神様のご支配が近づいている。それを受け入れるか、拒むか。私たちはその選択を迫られています。

Ⅱ.連累(れんるい)という悔い改めの見方

その上で、イエス様は「悔い改めて、福音を信じなさい」と呼びかけられました。「悔い改める」とは、ただ反省して謝ることではありません。方向転換することです。私たちは、誰もが自分の思いや願いを中心に生きています。自分が王様のように、人生の舵を握っていたい。それは自然な感情かもしれませんが、自己中心に考えることを、聖書は「罪」と呼びます。罪とは、単なる悪行や違反のことではなくて、神様から離れ自分が中心になることです。
日本の過去にも、この「自分が王でありたい」という思いからくる罪がありました。他国の人々を支配し文化を押しつけ戦争を正当化しました。ですから、私たちに今求められているのは、過去を振り返ることだけではなく、そこから向きを変えること。自分が王であることをやめて、神様を王とし、神の国に生きる者となる。それが悔い改めです。
先月、中会平和講演会が高座教会の礼拝堂でありました。講師の金迅野(きむ しんや)牧師が話をしてくださいました。その中で「連累(れんるい)」という概念を語っておられました。戦争という過去の人が行ったことについて、その時には生まれていなかった、今を生きる私たちは関係ないのだろうか?80年前の過去を現在の価値観・倫理観・人権意識で判断するということは違うのではないかという考えもあります。しかし、金牧師が「連累」という概念を紹介してくださって「現代人は過去の過ちを直接犯してはいないから直接的な責任はないけれど。私たちは、その過ちが生んだ社会に生きている。過去に、この地面の下にある歴史の上で生きている。そのため過去と無関係ではいられない。という意味が「連累」だと。英語で「implication」(含意、包含、含蓄)という意味ですが、もとのラテン語では「折り畳む」という意味で、過去の問題が折り畳まれているという意味で使われることがある。過去の、日本という国と教会が犯した罪が折り畳まれた地面の上で生活をしている私たちは、そのため過去と無関係ではいられないと思わされました。

Ⅲ. 福音を信じるとは、愛の支配を信じること

「福音を信じなさい」とイエス様は言われました。福音とは「良い知らせ」です。それは、自分が努力して勝ち取るものではなく、神様のほうから与えられる恵みです。
この良い知らせの中心にあるのが、イエス様の十字架と復活です。イエス様は、私たちの罪──自分勝手な歩み、神様を拒む心、隣人との断絶──をすべて背負って、十字架にかかってくださいました。誰もが見捨てられて当然と思うような私たちの罪を、イエス様は「赦す」と言ってくださったのです。
そして三日目に復活されたことで、死をも乗り越える神様の力と命が示されました。私たちは、この十字架と復活によって、罪を赦され、新しく生きることができるようになったのです。ですから、「福音を信じる」というのは、「神様の愛の支配を信じて生きる」ということです。

Ⅳ. 歴史から悔い改め、新しく歩む

「悔い改めて、福音を信じなさい」という主の呼びかけは、今を生きる私たちにも響いています。8月、日本がかつて引き起こした戦争を覚える時期に、この言葉は重く響きます。
『ヒットラーのむすめ』という児童小説を読みました。オーストラリアの児童文学作家ジャッキー・フレンチによるフィクションです。
オーストラリアのとある田舎町。雨の日、通学バスを待つ子どもたちが「お話ゲーム」を始めます。その中で、アンナという少女が「ヒットラーに娘がいたら?」という架空の物語を語り始めます。それを聞いたマークという少年は、もし本当にヒットラーの娘ハイジが存在していたら?”という問いに深く引き込まれていきます。彼は「自分の父が同じように大虐殺に手を染めていたら、自分はどうする?」と自問します。マーク少年は学校の先生に聞きました。「お父さんがいっぱい人を殺しても、責任はその子にはないんですよね?」と聞きます。「ない。その子には責任はまったくない・・・そして、もしその子が、父親が悪いことをしたという事実を認めようとしないとすれば、それは誤りだ。過去にあった間違いをちゃんと見つめないかぎり、人間は同じような間違いをくりかえしてしまうからだ。」マークは「ヒットラーは、あれだけ大量虐殺なんかしたのに、自分たちは正しいことをしていると思ってたんですか?」先生は「分からないな・・・もしかすると、よいことをしていると思いこんでいたのかもしれないな」。マークは「だけど、自分がほんとうに正しいことをしているかどうかは、どうやったらわかるんですか?」とさけぶようにきくと、先生は答えられませんでした。マークは、人は正しいと思ったことをするべきだ、でも正しいと思ったことが間違っていたら、どうなのだろう?という疑問を持ち続けます。みんながしていることをやればいい、というのは、答えにならない。ヒットラーがやったことから一つわかるのは、国じゅうの大多数の人が間違っていたということだからだ。マーク少年は、人間の正しさを考える機会となりました。物語は「今の世界をどう見るか」を考えさせます。
教会においても過去の過ちを見つめ、それを悔い改めることは、私たちが福音に生きるために避けて通れない道です。過去をなかったことにするのではなく、正直に向き合い、神様の前に告白し、そして赦しを受け取り新しく歩み出す。それが福音の力です。
お祈りします。