目を高く上げる
西川裕巳神学生 奨励要約
2025年8月10日
イザヤ書40章26節
マタイによる福音書14章15‐21節
Ⅰ. 「常時接続」の世界に生きる私たち
社会全体のデジタル化は、新型コロナの感染拡大の影響も相まって、急速に進み、コロナ後においても、その速度はさらに加速してきているように思われます。家庭や職場におけるITの利活用が一般化し、そのことで、私たちの生活は大変便利になりました。他方、この急激な変化について、最近考えさせられることも多くあり、今日はその思いを言葉にして、皆さんと共有するところから始めたいと思います。
アメリカの心理学者シェリー・タークルの著書の中に、ある学生の体験談が紹介されています。彼は学校のキャンパスで歩きながら友人と話していた際、友人が携帯電話にかかってきた電話に出たという行動に対し、強い違和感を覚えました。彼は「目の前にいる僕の話を保留にした」と言って立腹したのです。この本が出版されたのは、2011年です。その本の中では、「しかし、わずか数年でその行動は当たり前の世界となりました。」と書かれています。そして、今では、私も含め、多くの人が、目の前にいる人との対面での関係よりも、モバイル端末のやりとりのほうを優先させるという行動に対して、強い違和感を持つということがなくなっているのではないかと思うのです。
タークルはこのような世界を「常時接続の世界」と呼びました。「一人きりにもなれないし、二人きりにもなりにくい世界」です。実は、たとえ二人だけで過ごしていたとしても、スマホが手元にあるだけで、互いの感情への注意が弱まり、共感や対話の質が低下することが分かってきています。神様は、私たちを愛し、御子イエスの十字架と復活を通して、私たちにいのちを与えてくださいました。携帯電話に話を中断された友人の不満や怒りを思うとき、私にとって最も大切な神様との関係が今、改めて問われているのではないかと考えさせられました。
Ⅱ. 目を高く上げる
「あなたがたの目を高く上げ、誰がこれらを創造したかを見よ…」。イザヤ書40章26節の最初のこの御言葉は、バビロン捕囚下のイスラエルの民に向けて語られた慰めと希望の言葉です。預言者イザヤは、バビロンに捕らえ移された民に向かって、神の力と恵みを大胆に語ります。その言葉は、現代に生きる私たち一人ひとりの心にも響くものです。
「目を高く上げよ」という呼びかけは、現実の課題や困難に押しつぶされそうなとき、自分の殻に閉じこもるのではなく、神を仰ぎ見て生きる姿勢へと私たちを導きます。日常の中で私たちの目は右を見たり左を見たり、あるいは下を向いたりしてしまいがちなところがあります。しかし、神様は今朝、私たちに対して、「目を高く上げよ」と語ってくださっています。
世の中には「前を向いて歩こう」とか、「自分自身を見つめよう」などといったアドバイスもあります。それらの勧めは、いずれも建設的なものです。しかしながら、それらの助言は、「目を高く上げよ」という神様の言葉と同じものではありません。目を高く上げて、神様の存在を見上げ、神様の導きを仰ぐということが、信仰に生きる私たちの生きる力となります。
ところで、福音書には、イエス様が「天を見上げて神をほめたたえた」場面が描かれています。五千人の給食の場面です。5つのパンと2匹の魚しかないような状況で、多くの空腹の人々を前にして、イエス様は、天を仰ぎ、父なる神様を賛美し、人々に必要な食べ物を豊かに分け与えてくださいました(マタイ14:19、マルコ6:41)。八方ふさがりのように見える状況にあっても、天は開かれています。私たち自身は無力であり、周囲からの助けも期待できそうにない、そのようなときであっても、神様を見上げ、助けを求めることがいつでもできる、そのことを覚えたいと思います。
「目を高く上げよ」。それは、困難の中で私たちを生かす神の恵みに向かう招きです。この御言葉が、今日も私たちを励まし、支え、導いてくれるようにと願います。
Ⅲ. 切り出され、呼び出された者たち
私たちは、目を高く上げ、この世界を創造された神様の名をあがめます。このお方は「万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる」お方です。本日の招詞、イザヤ書51章1節、2節では、アブラハムが「切り出された岩」、「掘り出された穴」から呼び出されたことが語られています。アブラハムは一人であったときに神に召され、大いに祝福され、子孫が増やされていきました。
神学校の「比較宗教」という授業の中で、自分たちのこれまでの人生においてキリスト教以外の宗教とのつながりや接点について、それぞれが振り返った後、皆で語り合う機会がありました。そのようなワークショップを通じて、クリスチャンである学生たちも、この日本という地で、様々な宗教文化と関わりながら、生きてきたということに気づかされました。私自身もその一人です。
私は奈良で育ち、天理教の本部が近くにあり、また、無数の歴史のある神社仏閣に囲まれるような地で生まれ育ちました。小学生の頃、教会学校に通いながら、古い寺院をスケッチするのが好きな、少し変わった子どもでした。小学6年生の時には、学校の行事の一環として、吉野の大峰山に登り、修験道の修行のような体験もしました。男子は、山伏に縄で縛られ、岩山のがけから身を乗り出して「親のいうことをきくか」と詰問されるのです。一方、女子は入山を許されず、別のコースでした。
そのような他宗教の文化のただ中にいながらも、不思議なことに、私はキリストの教会へと導かれました。神に呼び出され、召し出された者としての歩みが始まったのです。皆さんの中にも、異なる宗教的文化的な背景から呼び出されて、今ここにいる、という思いを抱く方もいらっしゃるのではないでしょうか。
もう一度、イザヤ書51章1節、2節に戻ります。「切り出された岩」、「掘り出された穴」。これらの言葉は、神様の力強い御業によって成し遂げられた救いを象徴している表現のように感じます。私たちは、自分の力によって、岩盤から這い出てきたのではなく、神様の愛と召命によって呼び出された者たちです。まさに私たちの救いは、神様の「力技」による御業であり、イエス・キリストの死と復活によって与えられた恵みの御業だと思います。
Ⅳ. 活力を受けて
イザヤ書40章26節の最後の言葉にも、目を留めたいと思います。「その大いなる強さと力から逃れうる者は誰一人ない。」――神様こそがいのちの源であり、私たちに活力を与えてくださるお方です。私たちは時に心も体も疲れ果て、力を失ってしまうことがあります。からだの芯から力が湧いてこないのに、色々と取り組まなければならないことが沢山ある、そのようなときも、私たちにはあるのではないでしょうか。そんな中でも、神様はご自身の力を惜しまず私たちに注いでくださると、聖書は語ります。
イザヤ書40章の最後の節には、「主を待ち望む者は新たな力を得る」とあります。鷲が風を受けて高く舞い上がるように、私たちも、目を高く上げることによって、神様の御霊の力によって支えられる、そのような一週間の歩みとさせていただきたいと願います。
現代は「常時接続の世界」だと申しました。私の経験に照らして、言い換えるとするならば、それは、「注意散漫の世界」でもあります。短いテキストが飛び交う中で、刺激と反応を繰り返し、私たちの心はあちこちにさまよいがちになります。その背景には、人々に注意を向けさせることが、経済的な価値を生み出す、アテンション・エコノミーが影響しているのかもしれません。しかし、そのような時代にあっても、私たちは、目を高く上げて、心を上に向け、信仰をもって歩みを進めていきたいと願います。
お祈りします。
