妻と夫、そしてキリスト

宮井岳彦副牧師 説教要約
創世記2章18‐25節
ペトロの手紙一3章1‐7節
2025年8月17日

Ⅰ. 命の恵みを共に受け継ぐ

今日の聖書の御言葉には、一人ひとりそれぞれに、本当にいろいろな感想を持つのではないかと思います。性別によっても世代によっても、受ける印象はかなり異なるのではないかと思います。私もいろいろ考えました。そして今すごく感じていることは、聖書は人間を(というよりも私のことを)よく知っているな、ということです。
7節にこんなふうに書いてあります。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」(3:7)この最後のところに「あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と書かれています。ここには、「あなたの趣味が、あなたの仕事が妨げられることはありません」とは書いてないのです。そのことに気づいたとき、ハッとしました。
私はひとりっ子です。そのためか否かは定かではありませんが、私は一人の時間を確保したいタイプです。ところが聖書は一人で好きなことに打ち込む時間の話をしているのではありません。祈りの話をしています。
更にここでは「共に生活し」とも書いてあります。共に生活する中での祈りです。共なる祈りの話をしている。自分の好きなことを祈る時間を確保するという話ではない。共に生活をする者としての祈りです。
ここで「生活する」という言葉が使われていることも、とても印象深いことです。私たちの信仰は、生活です。一緒にお祈りをする生活。時には喧嘩をしたり、仲直りをしたりします。ご飯を食べたり掃除をしたりして、生活を共に営んでいく。そして、私たちの信仰は、そういう毎日の生活の営みと別物ではない。私たちの信仰は生活の中にある。生活する私たちが主イエスを信じている。
先ほどのところには「命の恵みを共に受け継ぐ」とも書いてあります。キリストを信じる私たちに神が下さるのは、「命の恵み」です。私たちに命を与える神の恵み。十字架にかけられたキリストから見えてくる神の恵み、ということでしょう。しかも、私たちはそれを「共に受け継ぐ」。共に祈り、共に神の恵みを受け継ぐ。神の恵みを、私たちは独りぼっちで受け取るのではなく、共に生きる者と共に受け継ぐのです。
そこで大切なのは、「妻を自分よりも弱い器だとわきまえて」と書いてあったことです。この「弱い」という言葉を調べてみましたら、とても興味深かったです。この言葉には「肉体的に力が弱い」という意味もありますが、「社会的に立場が弱い」という意味もあるそうです。相手は自分とは異なる存在であって、体の面でも他者であるし、社会的な立場も異なります。しかも、相手の方が自分よりも不利な立場にいる、弱い立場に立っている。そのことをわきまえろ、と聖書は言います。
相手や相手を取り巻く周囲に対する深い想像力が必要なのだと思います。私たちはお互いに全然違います。性別も、年齢も、社会的立場や経験も違います。能力も違うし、生まれ育った家庭環境も違う。そういう異なる他者への想像力を抱くこと、そこから愛が始まる。しかも、共に生活するところでの愛です。頭の中で妄想するのではない。相手の立っている場所を、想像力を伴う愛をもってわきまえ、共に生き、相手を共に神の恵みにあずかる人として「尊敬しなさい」と言うのです。すごい言葉だと思います。

Ⅱ. 同じように

愛するとは、想像することです。思いやりを抱くことです。そのことを考えたとき、7節が「同じように」と始まっていることにはとても大きな意味があるのだと思います。「同じように、夫たちよ…共に生活し…尊敬しなさい」と言います。誰と同じように?それは明らかに、妻です。あなたの妻があなたにしてくれているのと同じようにしなさい、と言っています。
それでは妻たちに何が語りかけられているのかと思って聖書に目を向けると、1節で妻たちに向かって言っています。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」ここでもやはり「同じように」と言っている。それでは、妻は誰と同じようにしろと言われているのか?聖書の文脈を考えると、それは「召し使い」です。「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、気難しい主人にも従いなさい。」そして、妻たちに向かって言うのです。召し使いがしているのと同じように、自分の夫に従いなさい。
聞きようによってはずいぶん封建的です。ひどく時代錯誤のような気もします。しかし、簡単にそう言って切って捨ててしまっていいのでしょうか?
聖書をよく読むと、召し使いたちにも手本がいることに気付きます。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです(2:21)」。召し使いは、キリストを模範とします。キリストのまねをして主人に仕えます。それと同じように、召し使いのまねをして妻は夫に従う。それと同じように、妻のまねをして、夫は妻と共に生き、彼女を尊敬する。夫の先生は妻です。妻の先生は召し使いです。そして、召し使いの先生はキリストです。
そして、何よりも大切なことは、そのキリストは私たちのために十字架にかけられたお方だということです。「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました」(2:24)。キリストが十字架にかけられたお姿で私たちの目の前にいる。私たちはこのお方を見つめて共に生きていく。
結婚式は、教会にとってとても大切な礼拝です。大きな十字架を前にして夫婦になる誓約をして結婚生活が始まります。夫と妻は、十字架の前で生まれるのです。それは夫婦だけではありません。教会も同じです。教会は十字架の前で始まります。私たちは神の家族です。私たちが神の家族として結ばれるのは、十字架にかけられたキリストの前以外のどこでもない。十字架の前以外に私たちの原点は存在しない。
教会には老若男女いろいろな人がいます。立場も経験も異なる、あらゆる人がいます。家族ですから。そうやってバラエティに富んだ家族を神が与えてくださったからこそ、お互いを想像力に満ちた愛で尊重し、仕え、従い、共に生きていきましょう。

Ⅲ. キリストをまねて

3節のところに「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りを身に着けたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく」と書いてあります。これもとても面白い言葉だと思います。もう少し現代風の言い方に直すと、美容とコスメ、アクセサリー、ファッションですね。先ほどの「趣味と仕事」と同じで、これも普遍的な関心の対象だということでしょうか。そして、美容とコスメ、アクセサリー、ファッションのような外面を飾るものではなく、内面にこそ価値がある…と話が続いて行く。そうすると、少し苦しくなってしまうかもしれません。それなら髪はボサボサで野暮ったい格好をしていれば良い、ということのでしょうか。しかしそれこそ外面的な読み方なのであって、そんなことを言っているのではないことは明らかです。それでは聖書は私たちに何を語りかけているのか?
先ほどの3節に続く4節に鍵があります。「柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです。」私はここを読んで思うのです。柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人、それはまさに、主イエスさまではないでしょうか。主イエス・キリストこそ、柔和で穏やかな霊を内に秘めたお方、その美しさを生き抜いたお方ではないでしょうか。
主イエスさまは、本当に優しいお方です。しかしその優しさは、何もできない優柔不断さではありません。持っておられる力を誇示することなく、他の人のために仕える優しさです。そして、どのようなときにも神の御前に生き、平安でいらっしゃるお方です。柔和で、穏やかなお方です。
主イエスさまのようになりたい。それが私たちの願いです。キリストさまのように生きたい。私たちはそう祈ります。
生活のことですから、自分のことは全部相手にバレています。どんなにきれい事を言っても、表面上取り繕っても、正体は知られています。家族ですから。「何を今さら?」と言われてしまうかもしれません。しかし、それでも、主イエスさまに少しでも似たものになりたい。私のために、私たち家族のために、私たちを神の家族としてくださるために十字架にかけられたお方。柔和で穏やかなこのお方に少しでも似たものになりたい。その祈りを、神さまは必ず用いてくださいます。今はまだ同じ信仰に生きていない家族に、あなたのその願いがキリストの命の恵みの素晴らしさを証言する、かけがえのない声として必ず用いられます。
「キリストに似たものにならせてください。」主は、私たちのそんなけなげな祈りを決してお忘れにならず、私たちを見捨てることも見限ることもなさらず、私たちを一つの家族として祝福してくださいます。