私たちへの招き
和田一郎牧師 説教要約
2025年8月24日
エレミヤ書16章14 -21節
マルコによる福音書1章16-20節
Ⅰ. ある日突然訪れる「招き」の時
今月、ボーイスカウトの夏キャンプで新島に行きました。到着して早々、スカウト・リーダーたちとその日の食事のために魚を釣りました。今日の聖書箇所に出てくる四人の漁師も、同じように日々の糧(かて)のために漁をしていました。マルコ福音書1章16‐18節にはこうあります。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります。
マルコは簡潔に記しますが、これでは一声かけられただけで従った理由が分かりません。ルカ福音書はこの背景を補います。実はペトロは既にイエス様と出会っていました(ルカ4:38)。ペトロのしゅうとめが熱病から癒された場面です。またルカ5章では、一晩中漁をしても一匹も取れなかったペトロが、イエス様の言葉に従って網を下ろしたとき、大漁になった奇跡も記録されています。ペトロは軽率に従ったのではなく、主の力を実際に体験し、人生を委ねる決心をしたのです。
さらにヨハネ福音書は、最初の出会いがバプテスマのヨハネのもとであったことを伝えます。マルコに描かれるガリラヤでの出来事は「初対面」ではなく「再会」だったと見ることができます。彼らは変わらぬ日常を送っていましたが、イエス様が突然現れ、「わたしについて来なさい」と声をかけられた瞬間、人生が大きく動き始めたのです。
Ⅱ.求める献身と、招かれる献身
ここには、イエス様の弟子たちと洗礼者ヨハネの弟子たちとの違いがあります。ヨハネの弟子たちは、自分から救いを求めて集まり、悔い改めの洗礼を受けました。「新しい生き方をしたい」という意思が先にあったのです。一方、イエス様の弟子たちは違いました。彼らはイエス様を探していたのではありません。網を打つ日常の中で、主の方から招きが訪れたのです。ここに大きな違いがあります。ヨハネの弟子たちは「自ら求めた献身」、イエス様の弟子たちは「招かれた献身」でした。
このことは現代の私たちにも重なります。「聖書をもっと学んでから」「仕事が落ち着いたら」「家族に理解されてから」と条件を整えようとしがちですが、主の招きは「今、その時」呼びかけているのです。
Ⅲ. 「わたしについて来なさい」
「わたしについて来なさい」という言葉は、原文で「わたしの後ろに来なさい」という意味です。マタイ11:28の「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と同じく、これは命令ではなく優しい招きの言葉です。
主に従うことは、命じられる重荷ではなく、平安と癒(いや)しへの招きです。
私自身、牧師になる決意をしたときのことを思い出します。2011年、東日本大震災のボランティアで東北を訪れた際、牧師や宣教師の働きを間近に見て心を動かされました。しかし、洗礼を受けて5年、聖書の知識も足りず、「もっと準備ができたら」と考えていました。それでも主は「今来なさい」と語っておられたのです。
神様に委ねたとき、平安が与えられ、献身の一歩を踏み出すことができました。献身とは完璧な準備ではなく、ありのままの自分で主に応えることなのです。
Ⅳ. 「人間をとる漁師」にされる恵み
主はさらに、「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。これは、単に職業を変えるという意味ではありません。イエス様は、弟子たちを通して、人々を救いへと招こうとされたのです。弟子たちを、救いのために「神の働き人」へと用いようとされているのです。エレミヤ書16章16節にはこうあります。
「今、私は多くの漁師を遣(つか)わし、漁師たちは彼らをすなどる」と。
「すなどる」とは捕らえる、釣り上げるという意味です。神様は、罪の中にある人々を救い上げるために「漁師」を立てられます。弟子たちを用います。そして、イエス様が私たちを「人間をとる漁師にしよう」「人間を救う漁師にしよう」とおっしゃいました。
ここに大切な教えがあります。弟子たちは「自分の努力で人を救う者になる」のではありません。主ご自身が、私たちを整え、造り変え、使命を与えてくださるのです。伝道とは、重荷を背負うことではありません。主の働きに招かれ、主と共に働き、導く恵みに与ることなのです。
聖書は語ります。18節「二人はすぐに網を捨てて従った」。
ここで言う「網」とは、漁師としての生活の手段であるだけでなく、彼らの人生の支えそのものを意味します。
網を捨てるとは、自分の人生の拠(よ)り所を主に委ねることです。ヤコブとヨハネも、父ゼベダイや雇い人を舟に残して従いました。家族を見捨てたのではなく、家族も人生もすべて、主に委ねる信仰に踏み出したのです。現代においても、私たちが捨てるべき「網」があります。
それは、「過去の失敗や後悔」、「人からの評価や比較」、「自分の力で何とかしようとする思い」などです。主に従うとき、これらを手放して新しい人生を始めることができます。
私はボーイスカウトのキャンプで新島に行ってキャンプファイヤーでメッセージをしました。
「神はソロモンに、非常に豊かな知恵と英知、そして海辺の砂浜のような広い心をお与えになった。」(列王記上 5:9)
新島の広い空、広い海、そして砂浜のような広い心は、ソロモンだけではなくて、みんな一人ひとりに与えられているよ、と伝えました。広い心は私たち一人ひとりに与えられています。
その広い心は自分の思いに固執する心ではありません。イエス・キリストに従い、委ねる心です。そして今日、イエス様は私たち一人ひとりを見つめ、こう語っておられます。
「わたしに付いて来なさい」(17節)
主は、私たちの完璧さを見て招いているのではありません。弱さも、不安も、すべてをご存じの上で呼んでおられます。
献身とは、牧師や宣教師だけの特別なものではありません。家庭で、職場で、学校で、地域で・・・。それぞれの場で、主に従い、主の御言葉に生きることです。小さな一歩であっても、主の招きに応えて歩むとき、神は必ず私たちを用い、人生を導いてくださいます。
お祈りいたします。
