キリストの正体
和田一郎牧師 説教要約
2025年8月31日
イザヤ書53章7-10節
マルコによる福音書1章21-28節
Ⅰ. 一行が向かったところ
今日の聖書箇所21節には「一行はカファルナウムに着いた」とあります。一行とはどういう人たちでしょう。先週の聖書箇所16-20節では、イエス様が漁師であった二組の兄弟を弟子にした話をしました。イエス様はアンデレとシモン・ペトロ、そしてヨハネとヤコブたちを弟子としました。その一行がカファルナウムに着いたのです。ガリラヤ湖北西岸にある町です。ペトロとアンデレはこの町で暮らしていました。弟子となったこの兄弟が暮らしている町に着いたのです。そして何をしたのでしょうか。イエス様はまず、「会堂に入って教えられた」とあります。弟子をともなったイエス様が最初に行ったのは「礼拝」でした。
イエス様は会堂に入り、そこで教え始められます。すると「人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」(22節)。
当時、ユダヤの律法学者たちも人々に熱心に教えを語っていました。神が与えた律法の知識に精通し、その正しい解釈と応用を示すことが律法学者の役割でした。彼らは律法を根拠に、「この問題のときにはこうしなさい」「あの状況ではこうするのが正しい」と具体的な生活の基準を教えていました。人々はその教えを参考にして日常を送っていたのです。しかし、その教えには限界がありました。律法学者たちが語る権威は、彼ら自身のものではありません。律法の条文に依存するものでした。律法が根拠になければ、彼らの言葉には力はありません。
それに対して、イエス様の教えは根本的に異なっていました。イエス様は律法を引用して「こう書かれているからこうしなさい」と言う必要がありませんでした。ここには具体的にどんな教えをしたのかは書かれておりませんが、イエス様は神の独り子として、神の御心を直接宣言されました。たとえば直前の1章15節で語られた言葉はその代表です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」
これは律法の解釈ではありません。神の国の到来を宣言する言葉です。人々はこの宣言の言葉を聞き、今まで経験したことのない「権威」を感じ取ったのです。それは学問的な重みではなく、神ご自身が語っておられるという確信を生み出すものでした。
Ⅱ.信仰は驚きから始まる
人々はイエス様の教えに「非常に驚いた」と記されています。この「驚き」こそ、信仰の始まりです。律法学者たちの教えは、倫理的で分かりやすいものでした。「こうすればよい」という指針は安心感を与えます。しかし、私たちがすでに知っている常識の延長線上にある話なら、驚きは生まれません。イエス様の教えは、私たちの思いを超えた神の新しい御業を告げるものでした。「時は満ち、神の国は近づいた。」
これは、私たちの常識や経験では説明できないことです。神が今、まさに新しい時代を切り開いておられるという宣言なのです。だからこそ人々は驚きました。さらに、イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と語られます。悔い改めとは、単なる自己反省ではありません。方向転換、すなわちこれまで背を向けていた神の方へ向き直り、神の支配に従って生きることです。そして「福音を信じる」とは、神の救いをただ受け取ることです。神の恵みにすがることです。イエス様の御言葉は、聞く者に決断を迫ります。「自分の思い通りに生きるか、神に従うか」。この御言葉に出会うとき、私たちは心を揺さぶられます。信仰はここから始まります。
Ⅲ. 汚れた霊との対決
すると会堂で、汚れた霊に取りつかれた男が叫びます。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)
興味深いことに、この男についた悪霊はイエス様の正体を誰よりもよく知っていました。しかし知っていても、イエス様に従おうとしないのが悪霊です。イエス様はその人を敵とせず、彼を縛っている悪霊に対して命じられました。「黙れ、この人から出て行け」(25節)。この御言葉に、悪霊は逆らうことができませんでした。この一言で男は悪霊から解放されました。
現代でも、悪霊の働きを軽視してはなりません。私たちを神から引き離し、隣人との関係を壊し、恐れや憎しみを増幅させる「目に見えない力」は確かに存在します。それは一人ひとりの心だけでなく、社会や国、民族のレベルでも働きます。過去の歴史の中で、群衆や国家全体が悪意にとらわれ、暴力と分断に突き進んでしまった例はいくらでもあります。
イエス様の公生涯がスタートしましたが、その使命は、人を縛る力、罪、恐れ、憎しみ、依存、絶望、それらを打ち破るための働きです。そして、そのことは、イエス様の十字架の死と復活によって最も明らかになりました。
イエスは悪霊の力、罪の支配、死の恐怖をすべて引き受け、十字架で贖(あがな)いを成し遂げられました。そして復活によって、神の愛と命の勝利を示されました。
だから、イエス様は今も私たちに語りかけます。15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」イエス・キリストが救い主として来られたという良い知らせを、信じなさいと宣言されたのです。
人々は驚き、互いに言いました。27節「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。」ここでいう「権威」とは、人を恐れさせる力ではなく、人を変え、生かす力です。イエスの御言葉は、人を裁くためではなく、新しい命へと招く力があります。「神の国は近づいた」という宣言は、今も私たちへ向けられた招きの言葉です。
今日の聖書箇所には、「驚いた」という言葉が二度も出てきます。「人々はその教えに驚いた」、悪霊を追い出したことに「驚いて論じあった」と。人々は、律法学者のような人間の思いから出る教えではなく、神の言葉として宣言された、その違いに驚いたのです。
律法学者たちの神の律法の教えは、もともとはモーセの十戒をはじめとする、神の言葉から生まれたものですが、人間の思いが混ざり合って、いつしか本来の神様の御心から離れてたのです。神の教えは人間の作ったルールで人を縛り付けるものではありません。人々を解放するものです。人は常に、人間が作り上げたものを疑ってみる必要があるのです。「神の御心から逸れていないだろうか?」と。疑問をもつことです。
映画「教皇選挙(コンクラーベ)」を観ました。カトリック教会のローマ教皇を選ぶ教皇選挙を描いています。世界中から枢機卿たちが集まり、閉ざされた扉の向こうで極秘の投票が行われます。物語の中心にいるのは、選挙を執り仕切るローレンス枢機卿です。彼は、選挙が始まるにあたって「確信」の危険性を語ります。強すぎる「確信」は人と人とを分断し、神の御心を見失わせる危険があると。自分の考えこそ正しいと思い込み、他者を裁くとき、信仰は権力闘争へとすり替わってしまうのです。彼は「疑う心」を持つことの大切さを示し、それは信仰を否定することではなく、むしろ神の御心を探し求めるための謙遜な態度だと語ります。
私たちがいつも礼拝で祈る「主の祈り」では「御心が行われますように・・・」と祈ることを私たちに教えています。神の導きに従うためには、自らの欲望や立場への執着を手放し、静かに神の声に耳を傾けることが求められます。私たちの日常の職場、家庭、教会、社会において、自分の正しさを押し通そうとする心は、しばしば人との断絶を生みます。
大切なのは、「自分の考え」よりも「神が何を望んでおられるか」を問い続ける姿勢です。イエス様は「悔い改めなさい」とおっしゃった。疑う心とは不信仰ではなく、むしろ神への真摯(しんし)な信頼の現れなのです。
イエス様の言葉が、カファルナウムの礼拝において、人々に驚きを与えました。それは律法学者に代表される人間の権威ではなく、神の権威ある言葉だったからです。
Ⅳ. 礼拝の奇跡
今日の出来事は、イエス様が会堂に入って教えられたできごと、つまり礼拝の中で起こった出来事です。礼拝の中で人々は驚き、悪霊に取りつかれていた人は、癒されました。
礼拝には人の心を新しく変える力があります。それは単なる気分が変わったということではありません。私たちは、自分で自分をどうにもできない存在です。心が乱れ、迷い、押しつぶされそうな時があります。けれども――もし、そのような私たちが神の言葉を聞き、神と向き合うことができるなら、その場で驚くべきことが起こります。大切なものをもう一度気づきなおすのです。失っていた希望を取り戻すのです。そして、私たちは変えられる。これこそ、礼拝の奇跡です。
これが、今日の聖書箇所で起こったできごと、つまり「礼拝」の姿です。礼拝は、神が私たちに備えてくださった「回復の場所」です。心が疲れ果てていても、重荷を抱えて押しつぶされそうであっても、どう祈ればよいかさえ分からなくなっても、神様は私たちを見捨てません。イエス様は、御言葉を通して、倒れかけた私たちをもう一度立ち上がらせてくださいます。だからこそ、私たちは礼拝に与るのです。
礼拝とは、義務ではなく喜びです。心をすべて注ぎ込んで神に向かう時間です。そこには、喜びがあり、解放があり、再出発の力があります。
イエス様は漁師であった弟子たちを選ばれ、まず最初に、彼らを安息日の会堂へと導かれました。そして、礼拝とは何かを、行動をもって示されたのです。弟子たちはそこで、礼拝がいかに命に満ちたものであるかを知り、心から驚いたのです。
礼拝とは、ただ「行う」ものではありません。礼拝は、神に出会うために整えられた、最高の時間です。イエス様は今日も、私たちをこの礼拝へと招いてくださいました。そして、私たちに語りかけます。私たちの心の中にある罪に向かって「黙れ、出ていけ」と罪を追い出し、「あなたは赦されている。わたしと共に歩みなさい」と招いてくださいます。そこには、神と出会う喜びと、生かす力があるのです。これからも、私たちは自分の罪深さを感じることがあるでしょう。その自分の罪に「黙れ、出ていけ」と言われるイエス様の言葉を響かせて、歩んでいきましょう。
お祈りいたします。
