キリストの癒し
和田一郎牧師 説教要約
2025年9月7日
詩編119編105―112節
マルコによる福音書1章29-39節
Ⅰ. ペトロの家での癒し
イエス様はガリラヤ湖の四人の漁師を弟子にされたあと、カファルナウムに来られ、安息日に会堂で教えました。先週の礼拝では、その会堂での出来事をマルコによる福音書1章21節以下から聞きました。本日はその続き、29節からの箇所です。聖書は29節でこう始まります。「一行は会堂を出るとすぐ、シモンとアンデレの家に行った。」この「すぐ」という言葉は、マルコ福音書によく出てきます。マルコは、生き生きと躍動感に満ちて働かれるイエス様の姿を表すために「すぐ」という言葉を繰り返し使います。ここでは文字通り、安息日の礼拝が終わって「すぐ」イエス様と弟子たちはシモンとアンデレの家に向かわれたのです。この家には、シモンの妻の母、つまり姑が住んでいました。彼女が高い熱を出して寝ていたのです。人々はすぐにイエス様に伝えたので、姑のそばに行き、手を取って起こされました。すると熱は去り、彼女は元気になって、すぐに一同をもてなしました。ここに描かれているのは、ただ病が癒えたという出来事ではありません。彼女は癒されたことで、再び人に仕える者となったのです。イエス様の癒しは、私たちを病や苦しみから解放するだけでなく、神と隣人に仕える新しい生き方へと招くのです。
Ⅱ. 癒しの奇跡が示すもの
32節には「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、御もとに連れて来た」とあります。なぜ日没まで待ったのでしょうか?
ユダヤの暦では、一日は日没から始まります。安息日には病人を連れて行くことも禁じられていたため、日が沈んで安息日が終わると同時に、人々は一斉にイエス様のもとへやってきたのです。シモンの家の戸口は、病を抱えた人々や悪霊に苦しむ人々であふれかえりました。そしてイエス様は、彼らを追い返すことなく、遅くまで癒し続けられたのです。病からの解放、悪霊からの解放、それぞれの癒しの奇跡がここに重なります。しかし、ここで大切なのは「癒し」そのもの」が目的ではないということです。
イエス様の癒しは、ただの「奇跡の見せ物」ではなく、福音を聞くことを妨げている力から人を解放するしるしなのです。病や悪霊によって人々は神に向かうことができなくなっていました。イエス様はその妨げを取り除き、人々を神との交わりへと回復させてくださったのです。マルコ福音書の中心は、癒しの奇跡ではなく、権威をもって福音を告げ知らせるイエス様です。イエス様はこう宣言されました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)
神の国とは、神の愛と恵みが実現する世界です。イエス様は、この神の支配がもう始まっていると告げ、私たちに方向転換を迫るのですが、それが「悔い改め」です。後悔や反省することではなく、神に向き直って新しく生きることです。そして、イエス様は「権威をもって」語られました。その権威は、神の独り子としての権威であり、人間の理屈や教えを超えるものです。悪霊たちもその権威を知っていました。だからこそ、イエス様が悪霊を追い出されたとき、彼らは恐れて「正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだのです。
Ⅲ. 祈りに生きる
イエス様は、夜遅くまで癒しの業を行われたあと、翌朝、まだ暗いうちに人里離れた場所へ行き、ひとりで祈っておられました。多くの人が癒しを求めてイエス様を探していたのです。それにもかかわらず、イエス様は、まず父なる神との交わりを大切にされたのです。まず神様との関係を優先しました。ここに、イエス様のお働きの原点があります。私たちの信仰生活の原点があります。奇跡を行い、多くの人々に囲まれながらも、忙しいながらも、イエス様は常に父なる神と向き合い、神様から力を受け取っていたのです。宣教と癒しの働きは、祈りに支えられていたように、私たちそれぞれの働き、役割も祈りによって支えられています。
自分自身が祈ることによって支えられ、信仰の仲間の祈りによって支えられ、何よりもイエス・キリストが今も一人ひとりのために祈って支えてくださっているのです。「キリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」(ローマ書8:34)私たちのための執り成しとは、私たちのために、父なる神様に執り成してくださっている、祈ってくださっているのです。
イエスさまは、朝早く、人里離れた静かな場所で祈られました。そして今も祈っておられます。祈りに生きています。そこに私たちの模範があるのです。そこへ、弟子たちがやって来ました。「みんなが捜しています」人々は、前日の続きで、この日も多くの人々を癒してほしい、ここカファルナウムに留まって欲しいと願っていたのです。けれども、イエス様はこう答えられました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである。」
イエス様の目的は、ひとつの町で奇跡を行うことではありません。神の国の福音を、まだ届いていない人々へと伝えることです。そして、ここで大切なのは「行こう」という言葉です。イエス様は「わたしが行く」ではなく、「私たちは行こう」と言われました。
これは、弟子たちを福音の働きへと招く言葉なのです。イエス様は、弟子たちのためにも祈っておられました。彼らを備え、将来、全世界へと遣わすために。私たちも同じように、この祈りの中にあり、招きの中にあるのです。
Ⅳ. 私たちへの招き
むかし、ある国の若き王様が、小さな村を訪ねたときのことです。王様は馬車に乗り、村の道を通っていました。その村は貧しい村で、争い事も多い村でした。しかし、そこで喉の渇きをおぼえて井戸が目に入ったので、従者に言って止まり、井戸に近寄りました。ちょうどそこに一人の農家の娘がいました。「喉が渇いてしまったのだ」と伝えると、その娘は井戸水を引き上げ、王に差し出したのです。その娘の姿は、言葉にできないような輝きがありました。王様は水を飲むと立ち去りましたが、幾日経っても忘れられず「もう一度、彼女に会いたい」と強く願いました。けれど王様には悩みます。自分は国を治める君主で、彼女は普通の村の娘。力ずくで妻にすることもできるかもしれない。でも、それでは彼女の心を得ることはできません。本当の愛は、権力やお金で買えるものではないからです。では、どうすれば彼女に心を向けてもらえるのか?王様は決断します。王冠とマントを脱ぎ、豪華な馬車を捨て、農夫の姿で村に下ってきて、そこに住むことにしたのです。彼は村人と同じ服を着て、同じものを食べ、同じ悩みを分かち合いながら、少しずつ彼女に近づいていきました。やがて、娘はその農夫が王様だとは知らずに、一人の人として彼を愛するようになります。
イエス様は、その王のように愛する人間の住む世界に来てくださいました。家畜小屋で産まれ、人として生き、喜ぶ者と喜び、悲しむ者と悲しみを共にして過ごしてくださいました。そして、罪人と呼ばれる人々、病気を抱えている人々、癒しを求めている人々のもとに行かれ癒してくださいました。イエス様はその歩みに、私たちを招いてくださっています。私たちに「行こう」と招いてくださっています。
イエス様は、ガリラヤ中の会堂を巡り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出されました。
その周りには常に弟子たちがいました。イエス様は彼らを伴い、共に働く者として育んでおられたのです。これは、私たちにも語られている招きです。私たちは力も知恵も限られた者ですが、イエス様は「行こう」と言われました。「行こう。あなたを通して働きたい」と呼びかけておられます。私たちの知恵と力は小さくても、イエス様ご自身の権威と恵みによって、神の国を広げていく者とされるのです。「近くの町や村へ行こう。宣教しに行こう。癒しを求めている人の所へ行こう。私はそのために出て来たのである」という声に応えるとき、私たちはイエス様の働きを共に担う者とされます。「イエス様、私のためにここにいてください。私の住む村にずっといてください」と、留めておくのではなく、イエス様が行かれる癒しを求めている人のところへ共に歩み出す。それが信仰の歩みです。この一週間、小さな私たちですが、イエス様と共に歩むなら、必ず神の御業を見ることができるでしょう。主はあなたを招き、用い、共に働いてくださるのです。
お祈りします。
