キリストのこころ
和田一郎牧師 説教要約
2025年9月14日
レビ記14章1-9節
マルコによる福音書1章40‐45節
Ⅰ. 宣教のはじまり
イエスさまはシモンの姑を癒し、多くの病人を解放されました。癒しの出来事は、人間の罪の束縛からの解放と神の国の始まりを示すしるしでした。そのため人々は癒しを求め、シモン・ペトロの家へ押し寄せました。けれどもイエスさまは言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである。」早朝の祈りの中でご自分の使命を確認され、救いに導き仕える者となること、神の国の到来を宣べ伝えることが目的であると示されました。教会にとっても大切なのは、神の国の福音を多くの人に伝えることです。
Ⅱ. 「規定の病」とは何か
マルコ1章40節にこうあります。「さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い『お望みならば、私を清くすることがおできになります』と言った。」
彼は熱病や悪霊ではなく「規定の病」を患っていました。口語訳では「らい病」、新共同訳では「重い皮膚病」、新改訳ではヘブライ語「ツァラアト」とされています。湿疹や斑点など多様な皮膚病で、祭司が「汚れている」とされた人は隔離されました。
旧約聖書の箇所レビ記14章と13章には、ユダヤ人共同体における規定の病の人に対応する取り決めが事細かに書かれています。レビ記13章45節にはこうあります。「規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。」
その人は自分の汚れが人にうつらないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならないのです。屈辱的なことです。
そして、「汚れ」と判定された人は、人にうつさないために、人と距離を取って町の外で隔離されて暮らす決まりでした。家族とは別に暮らさなければならないのです。もしこれが単なる「病気」なら、家族や仲間がそばで看病できます。しかし「汚れ」とみなされると、完全に隔離されるのです。そこで病気とは別の深い苦しみが生まれていたのです。
Ⅲ. 主は手を差し伸べて触れた
規定の病という、広範囲で言う皮膚病は、医療の発達していなかった当時の人々から、特別な扱いを受けていました。今でいう感染症で人にうつる病気でしたから、恐ろしかったでしょう。彼は「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。彼のこの言葉は「もしあなたがお望みになれば、あなたは私を清くすることがおできになります」という意味です。イエスの力への信頼、信仰を語っているのです。その言葉を聞いたイエス様の行動も驚くべきことでした。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ・・・」(41節)とあるのです。
隔離しなければならない人、近づいてはならない人に、手を差し伸べて「触れた」というのです。しかも、「深く憐れんで」とあるように、イエスさまは自分の痛みのように、この人の苦しみを受けとめ、寄り添われました。
この「汚れた人」として扱われた人の苦しみは、特別な人だけの話ではありません。たとえば学校でのいじめは、誰かを「汚れた者」と見なし、仲間外れにして排除する形で起こります。判定する側・される側が入れ替わることもあります。学校だけでなく、職場・地域、民族や国でも起こり得ます。
イエス様が、汚れた人に触れた。という行為は大胆で、周囲には衝撃でした。そして、言われました。「私は望む。清くなれ」。すると、たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。しかし、イエス様は、彼を厳しく戒めて「誰にも、何も話さないように気をつけなさい」。
つまり、規定の病を癒した噂を聞いて、人々が騒ぎ出しては宣教の働きの妨げになるので口止めされたのです。
イエスさまは「私は望む。清くなれ」と宣言して、この人を癒されました。このイエス様が人々を癒してくださった御業というのは、ただ単に病気の人を憐れんで直してあげたのではありません。人々が神様に心を向けるのを妨げているもの、神の国の到来という福音を妨げている病気や悪霊から解放する御業でした。ですから、規定の病の人を清めることも同じです。御業の中心が「人の願い」ではなく、主の御心であることです。イエス様は深いあわれみに動かされ、ご自分の意志で彼を清められました。
これは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言された主が、その宣言どおりに、苦しむ者の救いを、キリストの心で実行された御業です。私たちに求められているのは、このイエス様の心、主の御心に従うこと、委ねること、信じることです。
Ⅳ. 孤独から共同体への回復
規定の病の人は、ユダヤ人の共同体から隔離されて生きていましたが、この時癒されました。人々から隔離されてた生活を余儀なくされていた人が癒されました。この人のそれまでの苦しみというのは、病気そのものだけではありませんでした。病気によって、人々から隔離された。遠ざけられた。共同体の一員としてはされず、当然のように礼拝することを許されませんでした。
私はハンセン病の話を聞くと思い出す映画があります。映画 『あん』 (2015年 監督:河瀨直美 主演:樹木希林)ハンセン病患者の実話をもとにした作品です。どら焼き屋で働くことになった老女はハンセン病の施設から通っていました。彼女の作る粒あんのおかげで店は大繁盛。しかし、彼女に対するある噂が広まって客足は途絶えます。その老女は「私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちは、生きる意味があるのよ」という言葉を残しました。彼女の言葉は、ハンセン病患者だけではなく、隔てられた人々との新しい関わりの道を示す証となりました。
44節で、イエス様は、癒された人に言われました。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。」と厳しく言いました。「ただ、行って祭司に体を見せ・・・人々に証明しなさい。」と。
これは、礼拝と生活への「復帰」を導いているのです。イエスさまは、彼に「だれにも何も話さないように」と厳しく注意され、すぐに立ち去るようにとも言われました。ところが彼は、清められた喜びのあまり、あちこちで言い広めてしまいます。その結果、人々が癒しや清めだけを求めて殺到し、イエスさまは町に入れず、人のいない所に留まらざるを得なくなりました。
イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」そして起きたことは象徴的です。
彼は清められて町の中で人々と共に暮らせるようになりましたが、一方で、イエス様は、人が押し寄せて来て、町の外の人のいない所に留まらざるを得なくなりました。
ここで、立場が替わってしまったのです。かつて規定に病で「汚れた者」とされていた人が交わりを赦されて。イエス様が外の寂しい所に行かざるをえなくなった。立場の入れ替わりです。生きる道の入れ替わりです。
主イエスが、彼の汚れとその重荷をご自分で背負ってくださったことを示しています。
彼が清められ、礼拝に戻れたのは、イエス様が身代わりとなって負ってくださったからです。この御業は続いていきます。主イエスの働きは人々を回復させていきます。その一方でイエス様は危険な人物として狙われ、敵視され、逮捕されて、町外れのゴルゴダの丘で十字架に架けられます。この恵みに私たちも与っています。
私たちの罪の身代わりとなってくださったイエス様は、今も生きて私たちと共にいてくださいます。
お祈りいたします。


