祝福を受け継ぐために
<敬老感謝礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
2025年9月21日
詩編34編1‐23節
ペトロの手紙一3章8‐16節
Ⅰ. 祝福を受け継ぐために
敬老感謝礼拝として今日の礼拝を献げています。
9月30日までに75歳以上になられる方たちを覚えて、神の祝福を共に喜び感謝する礼拝です。この礼拝を迎えるにあたって、私たちにはペトロの手紙の御言葉が与えられています。この手紙を順番に読んできましたが、今朝のこの礼拝のためにすばらしい御言葉を神が与えてくださいました。感謝の思いであふれています。神が私たちに下さったプレゼントです。
今日の説教題を「祝福を受け継ぐために」といたしました。9節からとりました。私は本当に感謝をもってこの御言葉を聞きました。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」と書かれています。
ここに「召された」とありますが、要するに「呼ばれた」という意味です。あなたがたは呼ばれた。呼ばれてここに生きている。誰に呼ばれたのか。神です。神があなたを呼んだ。あなたの生きているその人生に、神があなたをお召しになった。そのように言うのです。
神があなたをお呼びになったとき、そこには大きな目的がありました。それは、あなたがたが祝福を受け継ぐことです。祝福です。悪とか侮辱とか呪いとか、そのようなものではありません。祝福を受け継がせるために、神があなたたちをお呼びになった。
礼拝の最後に「祝福」があります。今は「祝福」となっていますが、昔は「祝祷」でした。祝福を求める祈りと考えられていた。しかし、今はこれは祈りではなく ≪祝福の宣言≫ と位置づけられています。これはとても大事な理解だと思っています。
それは何を意味しているのか。このようなことを考えてもいいと思います。この礼拝から始まる一週間、私たちには何が起こるか分かりません。今日、交通事故に遭うかもしれません。誰かに悪意を向けられたり、侮辱されたりする事もあるかもしれない。理不尽な仕方で「義のために苦しみを受ける」(14節)こともあるかもしれません。もしもそんなひどい目に遭ったら、それは礼拝の時の牧師の祝福の祈りが聞かれなかったということなのか?神さまに祝福を求める祈りを聞いていただけなかったということなのか?
そうではない。礼拝の最後の「祝福」は、祈りではなく宣言です。既に神から与えられている祝福を事実として宣言する。祝福の宣言です。ですからこの一週間で例え何が起こったとしても、それは祝福の中での出来事です。どのような災いも、神の祝福という現実の中にある。そのことは揺るぎないのです。
Ⅱ. 「良い言葉」に生きる秘訣
ここまで「祝福」と特に注釈も付けずに申し上げてきました。「祝福」という言葉は、もともと、新約聖書が書かれたギリシア語では「良い言葉」という字を書きます。そう考えると確かに、礼拝で告げられる祝福である「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にありますように」というのは究極の良い言葉です。
しかし私たちの周りには「良い言葉」ならぬ「悪い言葉」が溢れかえっています。皆さんはどうでしょうか。夫の悪口、妻の悪口。嫁の悪口、姑の悪口。上司の悪口、部下の悪口。そのようなものを口にしたことがないという人はあまりいないのではないでしょうか。
私たちはどうして悪い言葉の虜になってしまうのか。「悪をもって悪に、侮辱を持って侮辱に報いず」と書いてありました。つまり、私たちの思いとしては「相手が先に悪い」のです。自分は被害者だと私たちは思い込んでいる。だから、悪をもって自分を傷つけた相手にはそれなりにやり返さないといけない、侮辱してくる相手にはそれなりに返さないと気持ちが落ち着かない。
結局、腹立たしい人を前にしたとき、普段は見えなくても実は私の心の中に何が潜んでいるのか明らかになってしまう、ということなのだと思います。
ところが聖書はそんな私たちの感情に逆らって言うのです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」(9節)。更に、続けて詩編が引用されています。「命を愛し善い日々を過ごしたい人は、悪から舌を、欺きの言葉から唇を守れ。悪から離れ、善を行え、平和を求め、これを追え」(10〜11節)。何を言っているのか、あまりにも明白です。分かりすぎてしまって却って困ります。一体どうしたらこのように生きられるのか、途方に暮れる思いさえします。一体どうしたら良いのか。
その答は、もう少し読み進めると書いてあります。「ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい」(15節)。私たちの心根を変えるとか、悪口・陰口を言わないように心がけるとか、そのようなことではどうにもなりません。無理です。心がけでどうにかできるほど、私の心の中に潜んでいる悪は甘くない。心がけではなくて、別のものに心を向けるのです。
「キリストを主と崇める。」この「崇める」は、主の祈りの最初、「御名が崇められますように」にも登場してきます。キリストを主と崇める。更に言えば、この言葉は直訳すると「聖とする」という字で書かれています。キリストを聖なるお方として崇めるとき、私たちは悪をもって悪に報いること、侮辱に対して侮辱でやり返してやることから自由になる。解放される。
高座教会の最初の牧師でいらした吉﨑忠雄先生の奥様はナオミ先生。ナオミ先生が最期をお迎えになっていらしたときの母娘の対話を、お嬢様の恵子さんが話してくださったことがあります。「お母さま、お祈りしてほしいことはない?」そうお尋ねになると、ナオミ先生はおっしゃった。「私の祈りは、『御名をあがめさせたまえ』でしょう」、と。
私は残念ながらナオミ先生に直接お目にかかったことはありませんが、ほんとうにすてきなキリスト者でいらしたとたくさんの方から伺っています。私たちは、キリストを聖なるお方として崇める時、悪や侮辱や呪いの言葉ではなく祝福に生きることができる。良い言葉がこの口から生まれるようになるのです。
Ⅲ. キリストの祝福を次の世代へ
「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」ここに「受け継ぐ」と書いてあります。「受け継ぐ」からには、私たちの前にも祝福を受け取った誰かがいて、その人から私たちのところに手渡された、ということになります。そうです。私にも、私のためにキリストの祝福を届けてくれた人がいた。私に、私たちに、神の祝福を届けてくれた人がいた。「受け継ぐ」というのはそういう事ではないでしょうか。
そうであるならば、私たちは私たちが受け継いだ祝福を次に引き継ぐ使命があることになります。つまり、この教会は私たちの代で終わりにしていいものではない、ということです。自分が生きている間だけ何とか保ってもらえれ・・・ということでは済みません。
今日はスカウトの子どもたちが歌のプレゼントをしてくれます。この子どもたちが主イエスさまと出会い、主と共に生きる幸せを知ってほしい。私たちはそう願っています。しかしそれだけではない。やがてこの子たちが75歳や80,90歳を迎えたときにも敬老感謝礼拝を献げて神の祝福を生きてほしい。そして、その時代の教会やみどり幼稚園、あるいはこの地域社会に生きているたくさんの子どもたちにもキリストに出会ってほしい。
主イエス・キリストを必要としている人は、今この時代だけにしかいないわけではありません。50年経っても100年経っても、キリストの祝福は必要です。神が下さったすばらしい祝福、良い言葉は、私たちがまだ見ぬ子らも必要としているものです。
将来の高座教会がこの地でキリストの福音を受け継ぎキリストを主と崇めて生きるために、そしてまたその次の世代に祝福を手渡すために、私たちは今ここでキリストのお体である教会を建てあげます。この祝福の使命に、神は皆さんを召しておられるのです。
お祈りいたします。


