福音の驚き
和田一郎牧師 説教要約
2025年9月28日
詩編122編1-9節
マルコによる福音書2章1-12節
Ⅰ. 宣教の拠点カファルナウムへ
イエス様はガリラヤから宣教を始められました。ガリラヤは当時、ユダヤの宗教・政治の中心エルサレムから見れば「田舎」であり軽んじられていた地域でした。しかし神の国は、人々が誇る中心からではなく、周縁にある地から始まります。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する」(マルコ1:38)とおっしゃって、ガリラヤの他の町々に行かれ宣教されました。その町で規定の病と呼ばれる重い皮膚病の人を癒し、今日の箇所で再びカファルナウムの町に来られました。今日の箇所には「律法学者」と呼ばれる人が、マルコによる福音書では初めて登場します。今日の聖書箇所から宗教的指導者との対立が始まり、受難への道が開かれていきます。
2章1節、「数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。」戻ってきたカファルナウムの町の人々は、前にイエス様が病を癒し、悪霊を追い出したことをよく知っていました。「イエスが来られた」と聞いた人々は、病気の家族を連れ、また奇跡を見たいと願う人も加わり、シモンの家にはあっという間に大勢が集まりました。戸口までいっぱいで入る隙間もないほどでした。しかし、イエス様が人々の前でなさった最初のことは、癒しではありませんでした。聖書はこう記しています。「イエスが御言葉を語っておられると」(2節)。イエス様の中心の働きは、奇跡そのものではなく、神の国の到来を告げる宣教だったのです。
Ⅱ.四人の友人の行動
そのとき、四人の男たちが、体が麻痺して動けない友を床に寝かせて運んできました。しかし、群衆に阻まれて中に入れません。普通なら諦めたでしょう。「人が帰ったあとに頼めばいい」と考えたはずです。
しかし彼らはそうしませんでした。屋根に上がり、泥と枝で作られた屋根をはがし、穴を開けて、友を床ごとつり下ろしたのです。当時のこの辺りの家の屋根は日本のような三角屋根ではなく平な屋根で、簡単に屋上に昇ることができたのです。そして屋根も、木や泥で作られていましたから、穴を明けることは比較的簡単です。そうはいっても、その場にいた人々も驚いたでしょう。まったく非常識で大胆な行動です。人の家の屋根を勝手に壊すなんて人を中へ吊り下げるなんて許されることではないのです。でも彼らには友をどうしてもイエス様のもとへ連れて行きたい。彼らの友情は、常識を超えて行動させたのです。
そして聖書は記します。「イエスは彼らの信仰を見て」(5節)とあります。ここで注目すべきは、「病気の人の信仰を見て」とは書かれていないことです。イエス様は、四人の友人たちの行動、友情を「信仰」としてご覧になったのです。病人本人が声をあげたわけではなく、友人たちが彼を抱えて来た。そこにイエス様は信仰を見られました。イエス様は、友情の中にある思いやりを尊ばれ、その中に光る信仰を認められたのです。
私たちと神様との関係が壊れ、神に背を向けることを「罪」といいます。私たちの罪は、神様との関係にとどまらず、人と人との関係にもはっきりと表れてきます。なぜ私たちは隣人と良い関係を築けず、自己中心になり、愛するどころか憎んだり傷つけたりしてしまうのでしょうか。それは、神様との正しい関係を失っているからです。神様との関係において喜びのない人は、自分自身を喜ぶこともできません。そして、他者との関わりにおいても喜びを持って生きることができないのです。私たちが抱える様々な苦しみや悲しみの根底には、この神様と、隣人との関係が横たわっています。この神と隣人との関係が解決されないかぎり、自分自身を認めることはできませんし、本当の意味での救いは決して訪れません。
だからこそイエス様は、友人のために屋根を壊してまでイエス様になんとかしてもらおうとした友人たちの友情と思いやりを尊重して下さったのです。信仰と認めてくださったのです。友情で繋がれた彼らが、共に、イエス様の前に立ち返るところから、本来の人間の正しい生き方が開かれていきます。
するとイエス様は、麻痺した病気の人にこう語られました。5節「子よ、あなたの罪は赦された」。人々は驚きました。求めていたのは病の癒しでした。けれどもイエス様は、より深い問題に手を伸ばされました。「あなたの罪は赦された」とは、神との関係の断絶を回復させるという宣言です。人は神を見失い、自分中心になり、人を愛せず、傷つけます。そこから悲しみや孤独が生まれます。その根本を解決しない限り、真の癒しはありません。だからこそイエス様は、まず罪の赦しを告げられたのです。
Ⅲ. 赦しの権威のしるし
その場にいた律法学者たちは心の中で思いました。7節「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒涜している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」イエス様は彼らの思いを見抜き、問いかけました。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と、ずばりと言われました。
罪の赦しは目に見えません。だから口で言うだけなら簡単だと彼らは思っていました。けれどもイエス様は続けます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。
そして病気の人に命じられました。「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」すると彼は立ち上がり、歩いて帰っていきました。それは、イエス様が「罪を赦す権威を持っておられる」ことを示すためでした。病の癒しは大きな恵みですが、それはさらに深い恵み「神様との関係の回復」の「しるし」にすぎません。イエス様がもたらす救いの中心は「罪の赦し」です。
そしてこの赦しは、やがてイエス様が十字架にかかり、私たちの罪をすべて背負われることによって実現します。「あなたの罪は赦される」とは、主の命によって保証されていたのです。
ここで忘れてはならないのは、すべての始まりは四人の友人の愛の行動だったということです。彼らが「この友をイエス様のもとへ」と願い、屋根を壊してでも連れてきた。その友情をイエス様は信仰としてご覧になり、赦しと癒しを与えられました。救いにあずかったのは病人一人だけではありません。四人の友人もまた「あなたの罪は赦される」という福音を自分に対する言葉として受け取ったでしょう。そしてその場にいた多くの人々も、驚きと共に神を賛美しました。
Ⅳ. 福音の驚き
聖書は最後にこう記します。「人々は皆驚嘆し、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を崇めた」(12節)人々を驚かせたのは、病が癒されたことだけではありません。友情を「信仰」として受け止められるイエス様のまなざし。そして罪を赦す権威をもつ主の言葉。さらに、その言葉を実際に裏付ける奇跡の力。ここに「福音の驚き」があります。友を思う愛が、神への信頼として受け入れられる驚きがありました。罪の赦しという、誰も期待していなかった深い救いが与えられる驚きがありました。そしてイエス様こそ神の子であり、赦しの権威を持つお方であることが示される驚きです。人々は皆、この驚きの前に神を賛美しました。私たちが互いを思い合い、祈り合い、支え合うとき、イエス様はその友情の中に「信仰」を見てくださいます。そしてその信仰に応えてくださるお方です。
私たちが主に連れ出す友のために祈り、また自らも主の前に出るとき、イエス様は「子よ、あなたの罪は赦される」と告げてくださいます。それこそが「福音」という良い知らせであり、私たちを新しく生かす力です。
「人々は皆驚嘆した。」福音の驚きとは、私たちの罪が赦され、神との関係が回復するという、この世で最も大きな恵みが、今ここに与えられているということです。この驚きをもって、神を賛美し共に歩んでいきましょう。
お祈りいたします。


