悩むより行動しよう
<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2025年10月5日
ヨハネによる福音書5章7,8節
Ⅰ. 図書館に行く理由
私の家族はよく図書館に行くことがあります。大和駅近くの図書館シリウスにもよく行きます。その理由は、子どもが遊べる広場があるというのがきっかけでした。もう一つの理由は調べものをするからです。私は「日々のみことば」メールというのを月曜から金曜の毎日配信していて、聖書の御言葉と生活とを重ね合わせた文章を書くのですが、読んだ本や見た映画の話をよくするので、調べたりするのに図書館に行くのです。自分にはない引き出しが、図書館にいくと引き出すことができる気がするのです。家に閉じこもって本を読んだり、調べたり、することが多いのですが、そうすると考えが停滞してしまって仕事がはかどらないという事が多いのです。
Ⅱ. 秘訣がある
ある時、図書館で本をめくっているとある文章が目に入りました。「文章を書くのに一番の秘訣がある」という文章が目に入りました。私は文章を書くことが苦手なので、何だろう?と思って見ると「文章を書くアイデアは、考えている時よりも書いている最中に浮かぶ」というのです。文章を書く時の書き出しが遅い私にとって、それは目から鱗でした。それは文章だけではなくて、さまざまな事柄に関する秘訣でもあると思いました。何事も頭で考えている時間が長くて、取りかかりが遅い私は、実は考えるだけのほうが楽で、行動する事のほうが難しいことを心の底では感じていたものの、実行できなかったのです。熟考しているつもりで、ただ長く思い巡らしていても、前には進まない。
「何を描きたいかは、描き始めてからでないと分からない」とはパブロ・ピカソの言葉だそうです。アイデアが浮かんだとしても、イメージをそのまま絵にできることはほとんどなく、実際に作業に取り掛かることによって、本当に描きたいものが湧き上がってくるのだと。なにごとも、何を求めているのか迷ったら、何かを始めてみるのがいいようです。
Ⅲ. ベトザタにいた病人
ベトザタの池には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢集まっていました。38年間、そこに座り続けてきた病気の人がいました。イエス様はその人のところに行って尋ねます、「良くなりたいか」。38年間、病気を治そうとずっと池の縁に座ってきた人です。良くなりたいと思わない訳がないと普通は思います。しかしイエス様は敢えてその人に「良くなりたいか」とお尋ねになりました。そしてその病人は、「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」と答えました。その人は「良くなりたいか」とのイエス様の問いに対し、「はい、良くなりたいです」と即答することができませんでした。病気を治すという本来の希望を忘れ、自分の病気がなぜ良くならないか、その理由を知らずに日々過ごしていました。
その人にとって病気が治らない理由、それは自分の環境でした。自分にはサポートしてくれる人がいない。自分はみんなのように早く動けない。それらはすべて本当のことでした。人々は「水が動いたとき、最初に池に入った者が癒される」と信じていました。つまり、速さと順番がすべてであり、遅れた人は救いから外れるという仕組みです。心身にハンディがある人ほど、競争からはじき出されていきます。助け手がいなければ希望は持てない。忍耐強く待ち続けても顧みられない。がんばっていても報われない。この仕組みは、弱さを持つ人をさらに孤独と絶望に追い込んでいました。これは力やスピードを持たない人、自分のペースやスタイルではなく、とにかく人と比べて優位に立たなければならない「競争社会」の縮図でした。そうした環境の中で、長い年月を過ごしてきたこの人は、自分の状態を、「環境や境遇のせい」にしてしまっていたのです。「池に先に入れてくれる人がいないから」、「他の人が先に行ってしまうから」、という言い訳を繰り返し、自分では何もできないと思い込んでいました。
その人の惨めな境遇を、主はよくご存知でした。イエス様は、よくご存知の上で、その人の所にきました。そして「良くなりたいか」とお尋ねになりました。たとえ「境遇」がどれだけ惨めであろうとも、イエス様は、まずもって、その人が本当に願っていることをお尋ねになったのです。しかし、その人は、率直に応えることが出来ませんでした。言い訳しかできませんでした。けれどその人にイエス様は力強くおっしゃいました。「起きて、床(とこ)を担いで歩きなさい」。
「起きて、床を担いで歩きなさい」(5:8)というイエス様の言葉には、単なる肉体の癒しを超えた象徴的な意味が込められているのです。「床」とは、彼が38年間、寝続けてきた諦めと停滞の象徴です。長い年月「諦めと停滞」という床から離れませんでした。同時に、それは「自分の居場所」でもあり、環境のせいにして安住してしまった場所でもありました。イエス様は彼に「床を担ぎなさい」と命じることで、過去の束縛や無力感を引きずったまま、しかし、それに縛られずに歩み出すことを示してくださったのです。つまり、自分の弱さを嘆くのではなく、弱さを抱えて新しい人生を歩むということです。
Ⅳ. 信仰という旅路へ出発する
この人は、イエスさまの言葉によって病気は治り、歩くことができました。「起き上がる」「床を担ぐ」「歩く」という言葉は、停滞の中から「出発」を意味する言葉です。人の思考は長く考えても、一定のところで飽和して、そこから先に進みません。人が頭で考える思考と同じで、信仰も具体的な行動によって実を結ぶものなのです。新約聖書のヤコブの手紙の言葉があります。
「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。」(ヤコブ2:21-22)
「信仰が行いによって完成されたのです。」とあるように、考えているだけでは、神の恵みを知ることができません。良い人生と神の恵みを受け取るためにも、起きて、行動によって信仰を完成することができるのです。
アブラハムにとって、イサクは「待望の子」であり、将来の希望そのものでした。そのイサクの命を捧げよ、という神の命令は、自分の理解や常識を超えたところで「従うかどうか」が問われた瞬間でした。アブラハムはクリスチャンにとって「信仰の父」と呼ばれますが、神様との間でしっかりとした信頼関係、つまり信仰を認められた人でした。しかし、心の中で思っているだけではなく、具体的に自分の大切な子を捧げることができるかどうか?を問われたのです。実際、アブラハムは息子のイサクを神に捧げようと決めましたが、神様はイサクの命を留めて、アブラハムを祝福しました。アブラハムの信仰が行いによって完成させられたのです。このようにしてアブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになったのです。
イエス様の「起きて、床を担いで歩きなさい」という言葉に従って歩むことは、長い旅にでるようなものかもしれません。信仰という旅です。しかし、それは寂しい旅ではありません。主イエス・キリストと共に歩む旅です。信仰への旅路に一歩踏み出していただきたいと思うのです。
お祈りします。


