隠れたことは父が見ている
<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2025年10月12日
マタイによる福音書6章1‐4節
Ⅰ. 日本人の道徳観
数年前ですが、私は大事な手帳を落としました。しかし、警察に届けられていて、私の手元に戻ってきました。日本って良い国だと思います。拾ったものを交番に届ける人が大半というのが日本です。昔、新渡戸稲造と言うクリスチャンが留学している時、ある人から「日本には欧米のようにキリスト教のような宗教がない。欧米では聖書から倫理・道徳を学ぶのだが、日本ではどうやって道徳を教えるのか?」と問われたことをきっかけに、その疑問に答える形で、新渡戸は『武士道』という本を執筆しました。『武士道』には、日本の武士が大切にしてきた道徳や生き方がまとめられています。『武士道』の核心となる7つの徳目があるのです。
自分の利益ではなく、正しい事ことを行うことを「義」と呼びました。正しいと信じたことのために勇敢をもって立ち向かう「勇気」を求めました。他者への思いやりを表す「仁」。嘘をつかず、正直に生きることを「誠」と表して、最後の7つ目が「忠義」とあって、主君や仲間への忠誠を尽くすことが、武士の生き方の根本となっているのが特徴でした。その最後の所はキリスト教の道徳観と違っていて、聖書では神様の教えに従うことが根本となります。善い行いは、先行する神様の愛に対する応答として求められているのです。そのことを今日の聖書箇所で見ていきましょう。
Ⅱ. 偽善者にならないように
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」(1節)イエス様はこのように言って、ユダヤの人たちが大切にしていた「善い行い」について注意をされました。6章の1節から18節までには、3つの「善い行い」について同じような教えが続きます。それは「施し(ほどこし)」「祈り」「断食(だんじき)」の3つです。「施し」は、生活に困っている人を助ける愛の行いでした。「祈り」は、神様を信じる心を表すものでした。「断食」は、神様への感謝や悔い改めの気持ちでした。これらの行いは、どれも善い行いです。しかし義務ではありません。それを行ったから正しいとか、しなかったから良くないというものではありません。けれども当時、多くの人が「会堂」や「町の通り」といった人の多い場所で、わざと目立つように善い行いをしていたようです。中には「ラッパを吹く」ように大げさにアピールしていた人もいたようです。その目的は、「人からほめられたい」というものでした。
イエス様は、そのような行いを「偽善者」と呼んで厳しく注意されました。人から見られることや、褒められることを目的にする善行は、見せかけの信仰になってしまうからです。これは昔の話として聞き流すことはできません。私たちの心にも、同じような思いがあるのではないでしょうか。何か良いことをした時、誰かに「見てもらいたい」「認めてもらいたい」と思うことがあります。それは人間として自然な気持ちですが、イエス様は4節にあるように「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」と言うのです。父とは神様のことです。つまり善い行いをするなら、人の目を気にするのではなく、神様を意識して行いなさいと、教えているのです。
しかし、これは他人事ではありません。私の中にも、何か良いことをしたり、結果を残したりした時、周りの人に見てもらい、分かってもらって褒められたい、評価されたいという気持がどこかにあると思います。誰にでもある思いではないでしょうか。もちろん、自分の行いが人から褒められたり、評価されたとしても、だれかに迷惑をかけるわけでもありません。要は、自分自身の「心」の問題です。信仰的に言うならば、「隠れたことを見ておられる」(4節)神様との関係性の問題なのです。それは私たちにとって大切な行動基準です。
イエス様は、2節で「偽善者たちが人から褒められようと・・・するように・・・してはならない」と話されています。イエス様は偽善者という言葉を何度も使いました。「偽善者」という言葉は、もともとギリシャ語で「役者・俳優」を意味する言葉です。当時の俳優たちは、舞台で仮面をかぶって、いろいろな役を演じました。イエス様がこの「偽善者」という言葉を使うとき、それは単に「演技が上手な人」という意味ではなく、本心とは違うことをしている人を指しています。つまり、外側では信心深く見せていても、心の中では神を敬っていない人、「神のためではなく、人に見せるために善行をしている人」のことを指しているのです。
さらに、3節「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」とイエス様は言われました。右の手と左の手が関係なくバラバラに別のことをするなど実際にはあり得ません。イエス様の教えは、右手で善いことをしたことを、左手に知られないようにといことです。つまり、善い行いをしたら、自分でも善い行いをしたことを知らないということです。善い行いをしたことなど忘れなさいというのです。イエス様は、他人からの評価を望むだけでなく、自分が自分で施しをして満足することにも注意しなさいと言われます。私たち人間は「善いことをしているのだからいいではないか」と思いがちです。難しいことを考えなくてもいいじゃないか「善いことをしているのだから」と思いがちです。確かに難しい理屈はいらないと思います。ですが神様を無視した善行は、成り行きに過ぎないのです。いつの間にか何のためにやっているのだろう?状況が変わると人目を気にするようになったり、自分を誇るためにやるようにすり替わってしまうのです。神を中心とした生き方はそれとは違います。神様の教えとは真理ですから、何とためにそれをやっているのか?逸れることがありません。神様からもらった永遠の愛と憐れみの応答として、善い行いをするならば、変わることなく天に富を積むことになるのです。
Ⅲ. 「善行」が神様との関係を壊すとき
今日は歓迎礼拝ですから、初めて聖書の言葉を聞くという人がいるかも知れません。ですから「善いことをしているのだからいいではないか」と思われるかも知れません。しかし、信仰を持つ人と、そうでない人との違いは、人生の中心を神様を中心に生きるか?自分中心に生きるか?その違いです。180度まったくの正反対を目的とします。自分中心に生きるか、神中心に生きるかです。それを考えた時、善い行いを自分中心に考えるのか、神様中心に考えるのかで、同じ善い行いをしていても違ったものになるのです。今日の聖書箇所の続きで、5節「祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」と教えているのです。祈ることは善い事です。そうであっても「あの人は信心深い人だ」と褒められるように祈る人もいました。そうではなくて「戸を閉めて一人で祈りなさい」と言っているのは、心の問題であって、心が神様に向かっているのか、人目を気にしているのかという、心の在り方を問うているのです。神と向き合うはずの祈りが、いつの間にか「人に見せるための宗教行為」になってしまう。その瞬間、祈りは神との対話ではなく、自分を飾るための演技になってしまいます。
「善をしたことを忘れなさい」という言葉は、この祈りにも通じます。
Ⅳ.隠れたことでも神は喜ばれる
私たちが生きる社会は、どうしても「見える善」を求めます。数字で測れる成果、評価されるボランティア、拍手される親切。けれど、イエスはその反対を教えます。「誰にも見られないところで、愛しなさい。」「誰にも気づかれないところで、祈りなさい。」そのような隠れた善行こそ、神の愛のかたちです。子どもに弁当をつくる親。職場で陰ながら仲間を支える人。教会の掃除を黙って続ける人。こうした「誰も気づかない愛」の中に、神の国の光が宿っています。
お祈りをいたします。


