自分らしく生きよう

<秋の歓迎礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
2025年10月19日
ルカによる福音書19章1‐10節

Ⅰ. 一期一会の出会い

「一期一会」という言葉があります。茶の湯のもてなしの心を表す言葉のようです。今日のこの出会いは一生にたった一度のかけがえのないもの。だからその出会いを大切にする。
今日は日曜日です。私たちは礼拝を献げています。この礼拝はまさに一期一会の礼拝です。もちろん、一週間経てばまた日曜日はやって来ます。そう考えると、礼拝の機会は何回もあるような気もします。しかし、来週の日曜日の礼拝は今日のこの礼拝ではありません。更に言えば今日の11時の礼拝は9時の礼拝ではないし、今日の9時礼拝は19時の礼拝でもない。この礼拝はただ一度かぎりのかけがえのない時間です。
ですから、今日この礼拝にお越しくださった皆さまお一人おひとりを歓迎したいのです。ようこそ、礼拝へ。あなたがこのように礼拝に来てくださったことに心からの感謝を申し上げます。
皆さんはどうして今日の礼拝に来られたのでしょうか。今日が初めてという方や二回目か三回目という方もいらっしゃると思います。久しぶりに礼拝堂に来てくださった方や、今日ふと礼拝の動画を見てみる気になった、という方もいらっしゃるかもしれません。日曜日の習慣になっているという方、家族に連れてこられているという方、いろいろいます。そこにある動機は人それぞれだと思います。
今日の聖書の話は、ザアカイという一人の人のお話です。この人はイエス・キリストを見てみたくて町に出かけて行きました。それどころか木にまで登っています。イエスに会ってみたかったのです。礼拝は、イエス・キリストとの出会いの場です。私はそう信じています。そういう意味では、ザアカイがイエス・キリストを見てみたい、会ってみたいと思ったのと、私たちがここでキリストを礼拝しているというのとはよく似ている。あるいはむしろ、同じことをしていると言ってもいいのではないかとさえ思います。
どうして教会の礼拝に行こうと思ったのか、ということには人それぞれの物語があります。私にもあります。いろいろなタイプの人がいます。小さな頃から親に連れられて教会に通っていて、気付いたらそれが当たり前のようだった、という人もいます。子育てをしながらいろいろ思うところがあって教会に来てみたという人もいます。近所を散歩していてたまたま教会を見つけたから、という方もおられます。友だちや恋人に誘われたからという方も、教会に行くと卓球ができたからという方もおられます。このザアカイという人物も、そんな私たちの一人だったのだと思います。
3節に、「〔ザアカイは〕イエスがどんな人か見ようとした」と書いてあります。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、それを直訳すると「彼は見ることを探した、イエスが誰であるかを」という意味合いの表現を使っています。私はこの「探した」という言葉がとっても良い言葉だなと思います。ザアカイは探していました。イエスは一体誰なのか。どういう方なのか。私たちも、同じように何かを探しているのではないでしょうか。ザアカイは私たち「探している人」の代表のような気がします。

Ⅱ. 徴税人の頭、ザアカイ

ザアカイは「徴税人の頭」だと書いてあります。今で言えば税務署の署長のような立場でしょうか。人々から税金を集めるのが仕事です。しかし、今の税務署とは全然違います。当時のユダヤの徴税人は不正し放題でした。徴税額をごまかして私腹を肥やしていました。しかも彼はその頭ですから、手下の徴税人らの儲けを上納させていたはずです。ザアカイは金持ちでしたが彼の財産は人々を騙して巻き上げたもので、反社会的な人物と言っても言い過ぎではないと思います。
そんなザアカイが、イエスという方を探していた、というのです。そんなザアカイがイエスを見てみたかった、というのです。どうしてそんなことを考えたのでしょう。
実はイエスは他の町でザアカイと同じ徴税人と友になっていました。しかもイエスの弟子の中に徴税人だった人もいました。それでザアカイもイエスを見てみたいと思った。イエスを探していました。
ザアカイは孤独だったのではないでしょうか。
この後、話が進んでいくとイエスはザアカイの家に行くことになりますが、それを見た人々は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7節)と呟いています。明らかにザアカイは嫌われています。
嫌われながら生きるというのは辛いことです。ザアカイは徴税人です。人からお金を騙し取っては嫌われていた。嫌われたらますます意固地になったに違いない。さらに人を騙すようになった。するともっと嫌われるようになります。負のスパイラルを突き進んでいった。
ザアカイがイエスを見てみたいと思って町に出たとき、黒山の人だかりで背の低いザアカイにはイエスが見えませんでした。誰もザアカイのために場所を譲ってくれませんでした。ザアカイは孤独です。独りぼっちです。友だちがいません。更に想像するならば、背が低いというザアカイの肉体的な特徴も、彼のコンプレックスになっていたことは十分に考えられます。ザアカイは、他人からも自分自身からも、見捨てられた人物だったのではないかと私は思います。
だからこそ、自分と同じ徴税人の友になったというイエスを見てみたい。そう思ってイエスを探したのではないでしょうか。
そんなザアカイは私たちの代表です。仕事のこと。人間関係のこと。自分自身の事。生活のこと。私たちもいろいろなものを抱えて生きています。そこには不全感があったり劣等感があったり、イライラがあったり悲しさがあったりします。それでも生きなくちゃいけないですから。それでも何とかやっていかなければならないですから。私たちはがんばります。でもがんばればがんばるほど、なぜか苦しくもなる。そんな時、ザアカイはイエスを見てみたくて、イエスを探して木に登ったのです。
木に登るおじさんです。滑稽です。しかしそのなりふり構わない姿に、ザアカイの切なる願い、探している者の必死さが現れているように思います。

Ⅲ. イエスがザアカイの家に泊まりに来た!

ザアカイは木に登った。すると誰も想像もしなかったことが起こりました。
「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている』」(5節)。イエスは「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と言います。良い言葉です。これまで誰も言わなかった言葉です。誰がザアカイの家に行きたいだなんて、しかも泊まりたいだなんて言ったでしょう。皆に嫌われ、独りぼっちだった男です。誰にも受け入れてもらえず、しかも、そうなるだけの理由を抱えていた人間です。
この「泊まることにしている」は「そうせねばならない」という、とても強い意味の表現です。今日、必ずあなたの家に泊まらないといけない。なぜでしょう。それは、この言葉をザアカイの家で宣言するためです。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(9,10節)。
「アブラハムの子」というのは、要するに、「あなたも神に愛されている神の子だ」という意味です。だから、イエスは失われていたザアカイを捜して救うためにこの町にやって来て、ザアカイと出会って、ザアカイの家に泊まりに来たのです。「あなたも神に愛されている神の子」とザアカイに伝えるためです。
ザアカイの方がイエスを探している、と思っていました。ザアカイに欠乏感があって、求めがあって、渇きがあって、救いを探していると思っていました。ところが本当は逆でした。イエスがザアカイを捜していたのです。イエスがザアカイを求めていたのです。ザアカイを捜して救うために、イエスがここまで来てくださったのです。
Ⅳ. 自分らしく生きよう
そんなイエスと出会って、ザアカイはお金を手放すことができました。「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します』」(8節)。驚くべき言葉です。
私は、ここで「全部返します」と言わなかったところがいいなと思います。ザアカイはこれからも生きていかなくちゃならない。ザアカイにもお金は必要です。ただ、ザアカイにとってのお金の意味が変わったのだと思います。これまでは自分の不全感を覆い隠し、人々に復讐し、渇きを表面上満たすためのお金でしかありませんでした。しかし今や貧しい人と共に生きるためのお金に変わりました。かつて自分が騙した人に返し、和解するためのお金に変わりました。お金の意味が新しくなった。ザアカイは自由になりました。
ザアカイの家にイエス・キリストが来られた。同じお方が私たちの家に来ておられます。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と、今日あなたの家にも来ておられます。イエス・キリストはあなたを捜しています。あなたへの神の愛を宣言するために、今日、あなたの家を訪ねておられるのです。