今は夢を追わなくてもいい
<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2025年10月26日
マルコによる福音書5章18,19節
Ⅰ. 夢を持つことへのプレッシャー
「夢を持ちなさい」私たちは小さいころからそう言われて育ってきました。学校の作文で野球選手や学校の先生や医者など、将来の夢を書く人がいたと思います。夢を語ることは素晴らしいことです。けれど、今の時代、先の見えない時代といわれ「夢」がかえって重荷になっていることがあります。将来が見えない、働き方も変わっていく、どんな職業が残るのかも分からない。そんな不安な時代に「夢を持ちなさい」と言われると、プレッシャーに感じる人がいるようです。「夢を持て」と言われても、自分が何をしたいのか分からない。「やりたいことがない自分」はダメな人間のように思えてしまう。そんな若い人たちの思いがあるそうです。けれど、神様の目から見れば「今、夢がない」ことは決して悪いことではありません。夢が見えなくても、道が閉ざされたように感じても、神様はその人の人生に確かな目的を備えておられるのです。今日の聖書に登場する一人の男も、まさに「夢も希望も失った人」でした。けれど、彼の人生は、イエス・キリストとの出会いによって、まったく新しい方向へと導かれていくのです。
Ⅱ. イエスと出会った人
マルコ福音書5章には、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ地方に住む一人の男が登場します。彼は「悪霊に取りつかれた人」と呼ばれていました。人々は彼を恐れ、村の外に追い出しました。彼は墓場の洞穴の中で暮らし、昼も夜も叫び声を上げ、自分の体を石で打ち叩いていました。誰も彼を助けられませんでした。鎖でつないでも引きちぎり、どうすることもできなかったのです。想像してみてください。その男は、家族からも見放され、友人もいない。社会から忘れられた存在です。人間らしい暮らしとはかけ離れた生活です。生きているのに死んでいるような日々を送っていました。けれど彼の心の奥底には、消えることのない叫びがありました。「自分も誰かに愛されたかった。もう一度、普通の人間として生きたい。」それが、彼の魂の叫びでした。
ある日、湖の向こう岸から一艘の舟がやって来ます。そこに乗っていたのがイエス・キリストでした。人々の病を癒し、悪霊を追い出す力をもった方。その方が、彼の住む荒れ野にやって来たのです。イエスを見るや否や、その男は走り寄り、ひれ伏して叫びます。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」悪霊が、イエスの力を恐れて叫ぶのです。イエスはその悪霊に命じられました。「この人から出て行け。」その瞬間、男の中で激しい葛藤が起こります。しかし、イエスの言葉の前に、どんな悪霊も従わざるを得ません。男は地に倒れ、やがて静かになりました。そして、目を開けたとき、そこにあったのは、穏やかな眼差しを向けた、イエス様が彼を見つめておられたのです。聖書は短くこう記しています。「取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」かつて墓場に住み、叫び続けていた彼が、今は穏やかな表情で座っている。イエスのまなざしに包まれた彼の中に、深い平安が訪れたのです。
Ⅲ. 「ついて行きたい」と「帰りなさい」
この癒やしの出来事の後、人々は恐れを抱き、イエスに「どうかこの地方から出て行ってください」と願いました。イエス様が悪霊を追い出しただけではなく、その後、悪霊が乗り移った二千匹ほどの豚の群れが湖になだれ込み死んでしまうという、驚くべき御業を見たからです。恐れた人々は「ここから出て行ってください」とイエス様に言いましたが、癒やされた男だけは違いました。彼はイエス様にすがりつき、「どうか私をあなたと一緒に行かせてください」と願ったのです。
当然のことです。自分を救ってくださった方と一緒にいたい。新しい人生を、主イエスと共に歩みたい。彼の心には感謝と喜びと、もう二度と過去に戻りたくないという強い思いがあったでしょう。しかし、イエス様は言われました。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」イエスは「一緒に来なさい」とは言われなかったのです。なんという意外な言葉でしょう。むしろ、「帰りなさい」と命じられた。彼が最も戻りたくなかった場所、過去の自分を知る人々のもとへ。
おそらく彼は心の中で叫んだでしょう。「主よ、あの人たちは私を嫌っているのです!
また笑われるかもしれない、また拒まれるかもしれない。」けれどイエス様は、一緒に来ることを認めず、静かに見つめていました。彼のこれからの人生には、神様が与える新しい使命があるからです。
私たちもまた、「こうなりたい」「こう生きたい」と願っていた夢が叶わなかった経験を持っています。就職、結婚、家庭、人間関係、健康など、思い通りにいかないことがいくつもあります。しかし、夢が叶わなかったからといって、神の計画が失われたわけではありません。むしろそこから、神の新しい道が始まるのです。
イエスに癒やされた男は、故郷に帰り、自分の体験を語り始めました。「主が私にしてくださったこと」を人々に伝えたのです。そして聖書はこう記します。20節「人々はみな驚いた。」そうです。彼の人生そのものが、神の証しとなったのです。語る言葉よりも、変えられた生き方そのものが福音を伝えていました。
Ⅳ. 神の計画の中で
私たちは「自分の夢」を探しますが、神は「あなたを通して実現したい夢」をお持ちです。それは、必ずしも特別な仕事や才能ではありません。むしろ、あなたの家庭、職場、地域、日々の暮らしの中で、小さな優しさ、誠実な働き、祈り、赦しの言葉。そうした小さな積み重ねの中に、神の夢が息づいているのです。
今は夢がなくても大丈夫です。
「心を尽くして主に信頼し 自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」 (箴言3章5-6節)
「夢が見えない」と感じるとき、人生が止まったように思えることがあります。けれど、神様は私たち一人ひとりのビジョンをもっています。自分でも知らなかった自分の賜物、本来発揮すべき自分の賜物を知ってくださる神様には、一人一人、それぞれの計画があります。今は自分の夢が見えなくても、それが神様のビジョンと一つになる時がくるのです。その神のビジョンへの道のりは、回り道に見えるかも知れません。曲がりくねっていても、必ず神様が計画してくださっている、その人とって最善のビジョンに繋がっていきます。
今は、自分の計画がなくても大丈夫。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼るな。」
─この言葉は、「すべてを自分で決めようとしなくていい」という神の招きです。夢を持てないときこそ、信仰の力が輝きます。主を信じて歩む人の道は、必ず主がまっすぐにされるのです。だから、焦らず、恐れず、今、与えられた一歩を大切に踏み出せば、神はそこに新しい夢を芽生えさせてくださいます。
かつて墓場にいた男が、今は光の中を歩んでいます。悪霊に取りつかれていた人は、イエス・キリストによって新しく造り変えられました。
神はあなたの、行くべき道を知ってくださっています。神様は、私たちを見放しません。
今、目先の願いが叶わなくても、神様のご計画は必ず成し遂げられます。お祈りいたします。


