罪人を招くため

<教育月間>

和田一郎牧師 説教要約
2025年11月9日
詩編86編1‐10節
マルコによる福音書2章13‐17節

Ⅰ. 徴税人レビ、罪の中に座り込んでいた人

イエス様は、ガリラヤ地方で宣教活動をしておられました。ガリラヤ湖からカファルナウムの町に向かう道を歩いていたようです。その途中に徴税人が働く収税所がありました。そこに徴税人の「レビ」という人がいたのです。今日の聖書に登場する「レビ」という人は、この箇所にしか名前が出てきません。この「レビ」は、イエス様の十二弟子、そして復活後に遣わされた十二使徒の一人だと、恐らく思われます。なぜ「恐らく思われる」かというと、マルコ3章16節以下の12人の使徒の名簿がありますが、そこに「レビ」という名が載っていないからです。今日の箇所では「アルファイの子レビ」とありますが、名簿には「アルファイの子ヤコブ」がいます。これが同じ人物だと見ることができます。さらに、今日の箇所と同じ出来事を伝えるマタイ9章9節では、この人物は「マタイ」と呼ばれ、マタイの使徒の名簿には「徴税人マタイ」とあります。つまり、レビ/ヤコブ/マタイと名前にバラつきがありますが、徴税人だったこの人物がイエス様に従い、十二使徒となったこと自体は確かだ、ということです。しかし彼こそ、後に「マタイ」と呼ばれ、マタイによる福音書を著した弟子であると考えられています。
レビは「徴税人」でした。税を集める仕事です。しかし当時の徴税人は、今の税務署のように公務員として尊敬される立場ではなく、罪人の代表のように蔑(さげす)まれていました。イエス様の時代、ユダヤ地方やガリラヤ地方はローマ帝国の支配下にありました。ローマの役人が徴収するのではなく徴税人に任せる制度を使っていました。ですから徴税人は、ローマのために同胞から税を取り立てる、裏切り者と見なされました。しかも徴税人は「請負制」ですから、決められた金額を納めれば、それ以上に集めた分は自分のもの、多く集めるほど儲かる。そのため同じユダヤ人からは罪人と呼ばれ憎まれたのです。
そのような仕事をしていたレビも人々から嫌われ孤独でした。お金があっても、心は満たされない思いがあった。
彼は毎日、収税所の椅子に座りながら、ガリラヤで評判になっていたイエス様のもとへ人々が集まっていく姿を見ていたかもしれません。けれども「自分のような者が神の恵みにあずかれるはずがない」と孤独に座り込んでいたのです。

Ⅱ. イエス様のまなざしと招き

そのレビがいた収税所にイエス様が通りかかったのです。そして、レビを、イエス様がご覧になりました。14節には「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て」とありますが、これは「目に入った」という意味ではなく、「じっと見つめた」ということです。イエス様はレビの姿を見て、その心の奥深くを見つめられたのです。そして一言、「私に従いなさい」と語られました。
レビはその言葉を聞くと「立ち上がって」とあります。立ち上がってイエスに従いました。何の説明もなく、条件もなく、ただその一言に応えて立ち上がったのです。罪の中に座り込んでいた人が、イエス様の言葉によって立ち上がる・・・それが信仰のはじまりでした。
彼は自分からイエス様を探しに行ったのではありません。イエス様の方が彼を見つけ、語りかけてくださったのです。これこそが、聖書の語る、救いの物語です。人が神を探すのではなく、神が人を探し出し、声をかけてくださる。罪の中に沈む私たちを、イエス様が見つめ、「わたしに従いなさい」と呼んでくださるのです。私たちもまた、心のどこかで座り込んでいるのではないでしょうか。過去の傷、失敗、罪、あるいは疲れや孤独の中で、動けなくなってしまうことがあります。
カラバッジョという画家が描いた「マタイの召命」という絵画があります。その絵はイエス様が「わたしに従いなさい」と呼び掛けた瞬間の絵です。その時のマタイは、他の徴税人たちと机を囲み、金貨を数えています。彼の顔はうつむき気味で、自分の内にこもっています。その絵はイエス様が来られた方角から強い光を差し込ませて、暗闇の中にいるマタイを照らし出します。イエス様からの光はイエスの言葉そのもの、神の恵みの象徴です。闇の中にいたマタイの人生に、キリストの方から光が届き、呼びかけが起こっているという構図の絵です。イエス・キリストの光に照らされるとき、その声に応えるとき、心が動き、立ち上がる力が与えられるのです。

Ⅲ. レビの家の食卓

立ち上がったレビは、新しい生き方を見つけました。そしてすぐに自分の家にイエス様を招きました。そして多くの仲間、徴税人や罪人たちを呼び集め、イエス様と共に食卓を囲みました。彼は、イエス様との出会いの喜びを、自分と同じように罪の中にある人たちにも分かち合いたいと思ったのです。これこそ、信仰の証しです。宣教の原点といっていいのではないでしょうか。
信仰とか宣教とは、まず自分の家や日常にイエス様を迎えることです。そしてその恵みを他の人にも分かち合い、イエス様と出会う場をつくることです。レビの家は、罪人とイエス様が出会う場所になりました。そこに神の業(わざ)が実現したのです。けれども、その出来事を、良く思わない人たちがいました。
ファリサイ派や律法学者たちです。彼らは「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。律法学者たちにとって、罪人と交わることは自分の清さを汚すことでした。神に仕える者が、そんな人たちと仲間になるなど考えられなかったのです。
 イエス様は、このガリラヤの町々で「神の国は近づいた」と、神に仕える者として人々に語ったいたのに、どうして汚れた罪人と一緒に食事をしているのだ?彼らには納得がいきませんでしたが、しかしイエス様は、あえて罪人たちと食卓を共にされました。
神は遠くの聖なる場所にいるのではなく、罪人のただ中に、悲しむ者のそばに来られる方であることを、行動で示そうとされたのです。

Ⅳ. 罪人を招く主

律法学者たちに対して、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
イエス様はご自身を「医者」にたとえられました。病んでいる者、つまり罪の中で苦しむ人を癒すために来られたのです。レビのように、金や立場にとらわれ、孤独に生きる人生は病んでいました。自分を責め続けて「もう立ち上がれない」と思っている人生も、また病んでいます。私たち一人ひとりも、心のどこかにその病を抱えています。
 アメリカのある人がキリスト教を冷やかして、「キリスト教会って所は病気や怪我人のような弱い人の集まりだ。信仰っていうのは杖みたいなものだ」と。それに対して牧師が、「確かにそうだ、信仰とは杖だ。しかしこの世の中に病んでない人がいるだろうか?」と言ったのです。
そうです、世界中のすべての人々が病人です。罪を抱えた病人です。すべての人に杖が必要なのです。イエス様は、そんな私たちの病を癒すために来られました。そして、ただ言葉をかけるだけではなく、私たちの罪と苦しみを背負って十字架にかかられました。
私たちが立ち上がることができるのは、イエス様が私たちの代わりに倒れてくださったからです。私たちが赦されるのは、イエス様が罪を背負ってくださったからです。収税所でレビが立ち上がったその日、実はイエス様は十字架への道を歩み始めておられました。
罪人を愛し、罪人と食卓を共にする。それは人々の反感を招き、やがて「イエスを殺そう」という陰謀にまで発展していきました。レビの家の食卓の喜びの背後に、すでにイエス様の十字架の影がありました。しかしそれこそが、「神の国」の到来を示す出来事だったのです。イエス様の言葉、「わたしに従いなさい」。それは単なる呼びかけではありません。罪の中に沈む者を立ち上がらせ、新しい命を与える言葉です。
イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。私たちは皆、レビのように何かしらの罪や弱さを抱えて座り込んでいる者です。けれどもイエス様は、その私たちを見つめ、「わたしに従いなさい」と語ってくださいます。その招きに応えるとき、私たちの中に新しい人生が始まります。神の子として立ち上がる力を与えられているのです。
お祈りいたします。