我らを救うキリストの歩み
<成長感謝礼拝>
宮井岳彦副牧師 説教要約
2025年11月16日
詩編139編1‐12節
ペトロの手紙一3章17‐22節
Ⅰ. 「毎日難儀なことばかり」
ある人が、ペトロの手紙の特徴は「福音」と「生活」が一体化していることだ、と言っていました。ここまでこの手紙を読んできて、「なるほど」と思います。というのも、この手紙にはとても具体的な話題が多いです。特に人間関係の悩みが話題になっています。仕事上の関係、特に気むずかしい上司との付き合い。夫婦の関係についても書いてあります。ファッションやコスメと内面的な気立ての話、夫婦二人で生活していて祈りの時間をどうやって確保するのか。口をついて出てくる悪口をどう考えたらいいのか。そんな具合にとても卑近な人間関係の悩みについてたくさん書いてあります。
私たちは他人との関わりの中で生きています。ですから当然、良いときばかりではありません。途方に暮れたり、どうしてこのようなことになったのか理解できなかったりすることも多い。何の悩みも苦しみもない、という人はむしろ少ないのではないかと思います。
今のNHKの朝ドラ「ばけばけ」のオープニングの歌がとても面白いです。のんびりとしたメロディで、優しい歌声なのですが、歌詞をよく聞いてみると「日に日に世界が悪くなる。気のせいか。そうじゃない」なんて歌っています。朝からずいぶんな歌詞だなとも思いますが、不思議と和む歌です。そして、案外この歌の言っているとおりだなと思う人は多いのではないかという気もしています。私たちの毎日は難儀なことばかりだし、世の中も悪くなる一方だ、と。
私たちの悩みの種は人間関係だけではありません。病気にもなるし、はっきりとした名前の付かない苦しみ悲しみもたくさんある。大切な人の看取り、愛する人の最期を迎えるためのお世話。誰が悪いわけでもない。病気になりたくてなるわけではないし、誰であっても最期は訪れる。それでも、私たちは苦しいんです。
人間関係だってそうです。トラブルが起きることもあるけれど、お互い様の部分もある。必ずしもトラブルが誰かの悪意から始まるわけでもありません。善意と善意がぶつかって傷つくことも多いのです。苦しいことや辛いこと、受けとめきれないことが私たちにはたくさんあるのです。
Ⅱ. 他ならぬキリストこそが
今日の聖書の御言葉にこんなふうに書いてあります。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです」(17節)。
素朴に言って、苦しい思いなんてしたくありません。まして善を行ったときや、神さまを信じ祈って始めたことで苦しまなくてはならないのは余計に堪(こた)えます。「どうしてこんなことが起こるのですか?」と問わずにおれません。
ところが先ほどの御言葉です。ここを読んで考えてしまいました。私の信仰は、いつの間にかご利益を求めるものになっていたのではないか。自分の得とまでは言わずとも、信じた分の見返りを求める信仰になっていたのではないか。
現実には、私たちには善を行っていたって苦しいことは起こります。避けがたい。そんな私たちの現実を聖書はどのように見ているのか。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです」。神の御心によって苦しむことがある。神がそれをお望みになって、善を行う私が苦しむということがあるのだ、と聖書は言います。
しかしそう言われても、頭では分かるような気がしても感情が追いつかない。うまく理解できない。なぜ、こんなに苦しい目に遭わないといけないのか?
聖書は続けて言っています。「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが…」(18節)。
ペトロは私たちの目をキリストに向けるように言います。イエスさまこそが正しいお方です。イエスさまこそが本当に善いお方です。そしてこのお方こそ、私の罪のために苦しまれたお方。しかも、その肉体を十字架に磔にされて殺されたお方。このキリストに目を向けよう、とペトロは言います。
どうも私が普段しているのはそうではなくて、何かにつけ理不尽だ、イヤだ、と言ってブツブツつぶやいてしまう。人間関係のことなら悪態をつき、自分の力で変えられない現実を受け入れようともしない。ストレスを発散させようと、買い物でもしてみたり。
しかし本当は違うのではないか。私たちの苦しみの意味は、このキリストの姿からでないと意味づけられないのではないでしょうか。そういう次元というか、深みがあるのではないでしょうか。聖書を読んでそう教えられました。本当に理不尽な苦しみをその身に負って、十字架にまでかけられて殺され、それでも神さまの前に善を貫いたのは、イエス・キリストです。
Ⅲ. 陰府に降って行かれたキリストは
更に聖書は、殺されたキリストが陰府に降(くだ)って何をしておられたのか、ということに目を向けます。「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです」(19,20節)。
新約聖書の中でも最も難解だと言われるところの一つです。まず、この「捕らわれの霊」というのは一体何者なのか?ノアが箱舟を造っていた時代の話をしています。そうすると、箱舟を造っているのをバカにして、乗ろうともしなかった人たちのことなのか?私はそう思っていました。しかしもしかしたら違うのかもしれません。細かい話は省かざるを得ませんが、どうも「捕らわれの霊」というのは人間ではなく、悪魔的、霊的な力のことを言っているようです。悪魔とか悪霊などと言われると、どう理解していいのかと思われるかもしれません。要するに、罪や悪、死の恐怖によって私たちを支配する力のことです。
例えば小さな事で言えば、先ほどの「人間関係」の問題。夫婦でも親子でも、あるいは職場でもどこでもいい。何らか意見の相違や立場の違いがあったとき、心にもない言葉を口走ってしまうことがあります。一線を越えてしまう。そんな時に心に渦巻く怒りや憎しみって、一体何でしょうか。人によっては相手に向かう「怒り」かもしれない。ある人には「自己嫌悪」や「無気力」といったかたちで発露されるかもしれない。
一人ひとりの話には留まりません。社会全体も同じです。この時代の社会を覆う精神を考えると、そこに蔓延(まんえん)する一つの病は「憎しみ」です。夏に選挙がありました。憎しみや罵(ののし)りの言葉が飛び交いました。僅か数年前には考えられなかった醜態をさらしています。外国人へのヘイトがまかり通っています。差別感情が隠されなくなりました。ところがそういう現実に心を痛めて「一人ひとりの心がけを変えよう」と思っても、到底追いつきません。残念ながら、私たちの個々人の心がけを変えたところで社会を蝕(むしば)む病はどうすることもできないと思います。
なぜなら、ここには人間を超えた悪の力の支配があるからです。そして主イエス・キリストは、そういう悪しき霊と戦うために陰府(よみ)に降って行かれたのです。「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)。ここに「宣教された」と書いてありますが、この言葉には「宣言する」という意味もあります。主イエスは陰府に巣くう悪霊のところへ行って、神の勝利を宣言なさったのです。悪の支配の終わりを告げたのです。
Ⅳ. 私たちも洗礼を授けられた者として
だからこそ、ペトロはノアの時のあの洪水は洗礼の水だ、という驚くべきことを言うことができたのです。「この水は、洗礼を象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです」(21a節)。
洪水の水ですから、滅びの水です。死の力そのものです。しかし肉において殺されたキリストは陰府で神の勝利を宣言し、罪と死と悪の力を打ち破って甦(よみがえ)り、私たちを悪霊の力から救ってくださった。キリストがご自分の死と復活によって、悪の支配を終わらせてくださったのです。
そうであるからこそ、続けてペトロは言います。「洗礼は、肉の汚(けが)れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です」(21b節)。今や私たちは、この悪が支配するかに見える世で、なお正しい良心をもって生きることができる。洗礼を授(さず)けられた私たちは神に誓約する。キリストが私のためにしてくださったように私も生きる、と。正しい良心のために受ける苦しみを、神の御心として耐え忍ぶ。
なぜなら、「キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます」(22節)と書いてあるとおり、イエスが勝利者でいらっしゃるからです。私たちを罪と死と悪の力からキリストが自由にしてくださいました。私たちを勝ち取ってくださった。だから私たちは、この後はキリストのものとして生きることができる。それが聖書の力強い約束です。


