クリスマスに始まる新しい人生
<クリスマス礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
2025年12月21日
ダニエル書12章1‐3節
ペトロの手紙一4章1‐11節
Ⅰ. 神を崇めるために
「あなたはどうして神さまを信じるようになったのですか?」「あなたが教会に行くようになったきっかけは?」そのようなことを尋ねられたら「賛美歌が好きだから」と答える方は少なくないと思います。教会には美しい賛美歌がたくさんあります。特にクリスマスはそうです。この説教の後には「聞け、天使の歌」という賛美歌を歌います。ここにも歌われていますが、最初のクリスマスの夜、天使の賛美が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。その声に合わせて、私たちも心を込めてクリスマスの賛美歌を歌います。
言わずもがな、賛美はクリスマスだけのものではありません。主イエスさまが教えてくださった祈りは「御名が崇められますように」という賛美の言葉から始まります。さらに、この祈りを教会が代々伝えていくとき、いつの間にか、最後に「国も力も栄光も、永遠に主よ、あなたのものです」という頌栄の言葉が加わりました。このすばらしい祈りの言葉を口にするうちに、さらなる賛美を重ねないわけにはいかなかったのでしょう。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉の最後のところにはこのように書かれています。「・・・それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」すばらしい賛美の言葉です。すべてのことにおいて、と言っています。私たちの毎日の暮らしの営み、私たちの仕事や家事、育児も介護も。そういうすべてのことにおいて、神が崇められますように、と言っている。それが私たちの願いです。
Ⅱ. もてなし
私たちの生活の全てにおいて、神が崇められますように。すごい言葉です。具体的にどういう生活が神を賛美するものとなるのか。このように書かれています。「何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい」(8〜10節)。私たちがそれぞれに神さまから頂いたものを用いて愛し合い、もてなしあうこと。隣人の罪を覆い、ゆるしあい、不平を言わずに愛し合うこと。そういう私たちの日常生活の振る舞いが神を賛美する、というのです。
しかし、現実の私の振る舞いを考えると、聖書が言っていることとあまりに隔たっていて苦しくなります。特に今私は9節の「もてなし」という言葉を考えています。
クリスマスを迎えていますから、いろいろなところでクリスマスのお話をしています。今年は子どもに話す機会が多い。子どもたちは喜んでクリスマスのお話を聞いてくれています。イエスさまは飼い葉桶にお生まれになった。その話を何度もしながら、私は改めて考えないわけにはいきませんでした。
そもそも、主イエスさまが飼い葉桶にお生まれになったというのは、本当はあってはならないことです。神の子でいらっしゃるお方です。ルカは、飼い葉桶に主が寝かされた理由を「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2章7節)と伝えています。この「宿屋」という単語には、単なる普通の「客間」という意味もあります。もしかしたら、マリアとヨセフがベツレヘムで宿をとろうとしたのは、旅館業を営んでいるホテルではなく、普通の民家の客間だったのかもしれません。ここまで行く先々で一部屋間借りして旅を続けてきた。ところがベツレヘムでは誰も客間に迎え入れてくれず、たどり着いたのは飼い葉桶だった。宿屋の主人の話ではない。部屋を譲ってくれなかった旅人たちの話ではない。ごく普通の、どこにでもいる、ベツレヘムの一般人の話です。
旅館は、お客さんを迎えるための場所です。それなりの準備をしているし、そのつもりでいます。しかし民家はそうではない。普通の家に見知らぬ旅人を迎えるのはかなり大変です。迎える側にもそれなりの覚悟が必要です
ペトロの手紙の「もてなす」という言葉ですが、元の単語は「よそ者を愛する」という字を書きます。ここでもてなすように言われているのは、よそ者のことです。自分の大事な人とか想定していたお客さんではない。予期せずよそから来た人です。厄介ごとに巻き込まれるかもしれない、もしかしたら危険かもしれない、よそ者。ベツレヘムにやって来たよそ者は若い夫婦でした。遠いナザレ村からやって来たこのよそ者は大きなお腹を抱えて、今にも子どもを産みそうになっている。一晩泊めたらその夜のうちに出産してしまうかもしれない。そんな厄介で面倒くさい若夫婦を迎え入れてくれる人は町中どこにもなかった。
クリスマスは、私たちのところに神の子イエスが来てくださった日。しかし、誰からのもてなしを受けることもなく、飼い葉桶に追いやられた日。それがクリスマスです。
1節に「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから」と書いてあります。キリストの苦しみは、飼い葉桶に寝かされたとき、既に始まっていたのではないでしょうか。主イエスの苦しみは、飼い葉桶に敷かれたワラが固いとか、動物の糞尿が臭いとか、そういう事にはとどまりません。よそ者をもてなし、愛をもって受け入れることのできない私たちの罪が生み出した苦しみです。私たちが負わせた苦しみです。自分の生活を守ることに精一杯で、厄介ごとを引き受けたくない自己保身。私は、ペトロの手紙の「もてなしなさい」という御言葉を読んで、ただただ恥ずかしいです。自分がどんなに不平にまみれ、愛から遠いか。ほんの少しその事実を知るだけでも、ただただ恥ずかしくて顔を上げられない。
私に深く根を下ろしてしまっている自己保身とか身勝手はどこから生まれてくるのか?
3節です。「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。」ここにあるのは私たちの欲望が生み出す乱行のリストですが、急所は最後に出てくる「偶像礼拝」です。
偶像礼拝。年末年始ですし、あの神社、この仏閣といったものを想像される方も多いと思います。確かにそういう事もあるかもしれませんが、それだけではあまりにも表面的だと思います。偶像礼拝。それは、私たちの欲望が生み出す神々です。私たちが自分の欲を押しつける相手が偶像です。ですから、繁栄を求めれば優しい顔の神を欲し、病魔を追い払って欲しければ強面(こわもて)の神を求める。
偶像にはいろいろな顔があります。どれも、私たちの貪欲の反映です。そうしたときに考えないわけにいかないのは、私たちはどのような顔を主なる神さまに押しつけているのか、ということです。主なる神を偶像の神々の一つに貶(おとし)めていないか。そして、欲望や貪欲は、よそ者を愛そうとはしない。損得計算で釣り合いませんから。
Ⅲ. クリスマスに生まれるハーモニー
ところが、ペトロは言います。7節「万物の終わりが迫っています。」似たような言葉をそこら中で見聞きします。「世も末だ」と。確かに、戦争が終わらない。自然災害も起きている。人心がすさんでいる。そうすると何の望みもないということになる。しかし、ここでペトロが言っているのはそのようなことではありません。
「万物の終わりが迫っています」。この「迫っている」という言葉ですが、実は、主イエスが「神の国は近づいた」とおっしゃった「近づいた」とまったく同じ表現を使っています。ペトロは、自分の耳に響くキリストの福音宣言を自身の口にも上らせ、私たちのところに届けたのではないでしょうか。「万物の終わりが迫っています」。そう、神の国は近づきました。キリストが宣言した福音は私たちのところに来ました。もう、それは始まっている。キリストの愛のご支配は始まっている。キリストがお生まれになったからです。クリスマスはもう来たからです。
私もキリストの愛のご支配の中で生かして頂いている。私たちはそう信じています。キリストの愛が私たちを支配していることを信じたときに、私たちに見えてくるものがあります。10節に「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい」と書いてあります。私たちには、それぞれに神が与えてくださったものがある。愛し合い、もてなしあうために必要なものは全部神が与えてくださっている。だから、「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」(11節)とペトロ牧師は語りかけます。
ここに「神がお与えになった力」と書いてある。この「与える」という言葉には、もともと「合唱団を率(ひき)いる」という意味があるそうです。今日は高座教会の聖歌隊が11時礼拝で特別賛美を神に献げた。合唱は、各自に与えられた声を共に持ち寄ることでハーモニーになります。ハーモニーは愛の力です。神が私たちに与えてくださった分に応じて、私たちも互いに愛し合う。よそ者を愛してもてなす。それは神をほめたたえるハーモニーとして響く。神は耳を傾けて聞いてくださるでしょう。そういうクリスマスの奇蹟が私たちにも始まっている。クリスマスの夜に私たちのところに来た神の国は、今日、私たちにも迫っています。


