受難と宣教

和田一郎牧師 説教要約
2026年8月2日
マラキ書3章19-24節
マルコによる福音書6章14-29節

Ⅰ. 神の言葉は新しい世界へと招く

先週の説教では、6章7節から十二人の弟子たちを派遣する話がありました。イエス様は、福音を伝えるために自分お一人の力ではなく、将来、キリスト教会が世界中に広がっていく礎を築く第一歩として、弟子たちを派遣しました。12節のところで「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた」とあります。そして、彼らはその宣教の働きをして帰ってくるのですが、それが今日の聖書箇所の後、30節に書かれています。30節「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」とあるのです。本日の聖書は、十二人の使徒たちが宣教に出て行く箇所と、帰ってきた箇所の間に置かれているのです。イエス様を中心とする弟子たちの宣教活動の間に、洗礼者ヨハネと、ヘロデ王の出来事が記されています。それが本日の聖書箇所です。
14節「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」イエス様はガリラヤ地方で宣教の働きをしていましたが、その噂がこの地方の領主ヘロデにも伝わりました。
このヘロデ王というのはマタイ福音書で、イエス様がお生まれになった時の幼児虐殺を命じたヘロデ大王ではありません。その息子で正式には王ではなく、ガリラヤ地方の領主でした。しかし人々は慣例的に「ヘロデ王」と呼んでいました。彼の耳にイエス様の噂が届いたのです。その噂というのは、イエスは「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」というものです。つまり洗礼者ヨハネと同じように、神の言葉を語るもの、神の業を行う者だという噂です。それを聞いたヘロデは「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、この時すでに、洗礼者ヨハネは死んでいました。ヘロデ王自身が口にした通り、ヘロデがヨハネを殺害したのです。その顛末が17節からです。
洗礼者ヨハネは、神の言葉を預かる預言者として「悔い改めなさい」と叫んでいました。しかし、それだけではなく当時の権力者ヘロデ王の罪も指摘しました。ヘロデは兄弟の妻ヘロディアと結婚していたのです。それは神の律法で許されていない不正な結婚だと非難したのです。ヨハネは、相手が権力者だからといって沈黙することはありませんでした。そこでヘロデ王は、人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないだのです。

Ⅱ. 当惑しながらも、喜んで耳を傾ける

特に洗礼者ヨハネに恨みをもったのが、ヘロデ王の妻であったへロディアです。彼女はヘロデ王との結婚を「罪」と指摘したヨハネに憎しみをもっていたので、ヨハネを殺してしまいたいと思っていたができないでいたのです。なぜか? 20節「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知った」のです。ヘロデは、自分が捕えさせたヨハネに会ってみたのです。領主である自分のことを批判し、多くの人々が彼を神の言葉を語る人だと洗礼を受けていた男。ヨハネとはどのような人物なのか、興味を持ったのです。ヘロデはヨハネに会ってみた。するとヘロデは恐れました。このヨハネは正しい聖なる人だと思ったのです。さらにヘロデは「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあります。
私はこの一節が、この箇所の中心だと思います。
ヘロデは、ヨハネの語る言葉に深く心を揺さぶられていました。それは、これまで彼が一度も耳にしたことのない言葉だったでしょう。権力者として多くの人々に囲まれ、いつも耳にするのは、自分を喜ばせる言葉や、機嫌を取る言葉ばかりでした。しかしヨハネの言葉は違いました。その一言一言が、彼の心の奥深くに突き刺さったのです。
その言葉によって、ヘロデの目の前には、それまで見たこともない新しい世界が開かれていきました。神の国という新しい世界です。しかし、その世界は希望に満ちた美しい世界であると同時に、彼を震え上がらせる世界でもありました。なぜなら、その世界へ一歩踏み出した瞬間、彼はもはや以前の自分ではいられないからです。これまで築き上げてきた権力も、名誉も、欲望も、握りしめてきたものすべてを手放さなければならないかもしれない。そのことを彼は本能的に感じ取っていました。
普通なら、そのような言葉には耳を塞ぎ、「そんな話は聞かなかったことにしよう」と退ければ済むはずです。ところが、ヨハネの言葉には、それができない力がありました。神の言葉が、王であるヘロデの心を静かに、しかし確かに掴んでいたのです。ヘロデは、自分が未知の世界へ引き寄せられていくのを感じていました。そして、さらに不思議なことが起こります。その世界へ引き込まれていく自分を、心のどこかで喜んでいることに気づいたのです。
変わらなければならない。これまでの人生を手放さなければならない。それなのに、その新しい世界へ行ってみたい。その神の国に生きてみたい――そんな願いが、自分の内側に芽生えていることに気づいたのです。
だから聖書は、ヘロデは「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」と語るのです。この「当惑」と「喜び」が同時に存在するところに、神の言葉が人の心に働く不思議さがあるのではないでしょうか。

Ⅲ. 人は神の言葉を拒む。それでも宣教は止まらない

しかし、ヘロデ王は、結局ヨハネを殺しました。ヘロディアの娘が踊りを踊り、ヘロデを喜ばせた。娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。」と言われると娘は母親と相談して、母へロディアの願いどおりに洗礼者ヨハネの首を盆にのせてもって来させたのです。
ここで登場する「ヘロディアの娘」は、聖書には名前が記されていません。しかし、1世紀の歴史家ヨセフスの書籍によれば、彼女の名はサロメでした。そのため、今日では一般に「サロメ」と呼ばれています。中世以降、多くの画家たちは、盆に載せられた洗礼者ヨハネの首を手にする美しい女性としてサロメを描きました。さらに19世紀になると、オスカー・ワイルドの戯曲や、オペラによって世界中に広まりました。しかし、聖書には彼女を母ヘロディアの憎しみに利用された一人の若い娘として描いています。娘は母親のもとへ行き「何を願いましょうか」と尋ねます。母親が「洗礼者ヨハネの首を」と命じ、その通りに王へ願い出たのです。しかし、この話の中心人物は、サロメではありません。焦点は、真理を知りながらも世間体と面子のために神の言葉を退けたヘロデにあります。そして、その中で、一人の若い娘が利用され、洗礼者ヨハネが殉教するという悲劇が起こったのです。
ヘロデは「非常に心を痛めた」とあります。しかし彼は、自分の誓いと列席者の前での体面を守ることを優先しました。人の目を恐れる心が、神の言葉を恐れる心に勝ってしまったのです。この場面は、単なる宮廷の陰謀ではありません。やがてイエス・キリストご自身が十字架へ向かわれる受難を先取りする出来事として、マルコ福音書はここに記しているのです。

Ⅳ. キリストは今日も私たちに語り続ける

しかし、マルコ福音書は、この悲劇で物語を終わらせません。洗礼者ヨハネは殺されました。神の言葉は拒まれました。人間の目には、悪が勝利したように見えます。しかし、その直後、マルコは何を語るでしょうか。派遣されていた十二弟子たちが帰って来るのです。彼らは各地で福音を宣べ伝え、多くの人を癒やし、神の国を証しして戻って来ます。
ここにマルコ福音書の力強いメッセージがあります。ヨハネは倒れても、宣教は止まりません。神の言葉は、一人の預言者が殺されたからといって消えてしまうものではありません。ヨハネからイエス様へ、イエス様から十二弟子へ、そして教会へと、神の言葉は受け継がれ、今も世界に語り続けられているのです。私たちの歩みも同じではないでしょうか。人生には、理解できない不条理があります。正しい者が苦しみ、悪が栄えるように見えることもあります。世界に目を向ければ、争いや災害、不安な出来事が絶えることはありません。それでも、神の働きは止まりません。礼拝は続きます。福音は語り続けられます。私たちの信仰の歩みもまた続いていくのです。
なぜなら、その歩みを支えておられるのは、人ではなく、復活して今も生きておられるイエス・キリストだからです。洗礼者ヨハネの命は奪われても、神の言葉は奪われませんでした。そして二千年を経た今日も、その神の言葉は、この礼拝において私たち一人ひとりに語りかけています。そのみ言葉に支えられ、どのような時代にあっても希望を失うことなく、イエス・キリストとともに歩み続ける者でありたいと願います。
お祈りいたします。