キリストと共に旅する喜び―敬老感謝礼拝

松本雅弘牧師
イザヤ書46章3-4節
ペトロの手紙一2章1-12節
2022年9月18日

Ⅰ. 敬老感謝礼拝とは

聖書は、私たち一人一人が、天国を目指した旅人であると教えています。ただ、ともすると目まぐるしく移り行く現代社会の中、時として教会もそうした波に飲み込まれることもあるかもしれませんが、しかしここ二年半は、コロナに見舞われ、否が応でも立ち止まらざるを得ない経験をしています。
そのような私たちにとって、聖書が教える、「私たちは旅人である」というメタファーはとても大切なことを気づかせてくれるのではないかと思うのです。その一つが、旅とは「行くべきところ」であり、場合によっては「帰るべきところ」と言い換えることが出来るかもしれません。
以前、日銀の総裁を務めた速水優さんが退任の記者会見で取材した記者が、「私にとって、この小柄な老人は、日銀総裁としてよりもキリスト者として強く記憶された。そして速水さんを取材すればするほど、『帰るべきところ』をもつ人なのだと感じ入ることになる」。速水さんのことを「帰るべきところを持つ人」と表現したことが、私の心に残りました。「帰るべきところ」というのは、神の御前ということでしょう。速水さんの総裁室には小部屋があって、そこに聖書が置かれ、難しい決断をする時に、そこに入って祈りを捧げたと言われます。そこ、すなわち神の御前が、速水さんにとって「帰るべきところ」だったのでしょう。でも、そのことをもっと膨らませて考えるならば、天の御国、と表現してもよいかもしれません。

Ⅱ. 旅人であり寄留者である私たち

使徒ペトロは、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから…」(新共同訳による)と語り、私たちが、この地上にあっては、旅人であり仮住まい、寄留者である事実を思い起こさせています。では、私たちが天国を目指す旅人である、あるいは旅人としての私たち、ということはどういうことなのでしょう。
今年六月に、総会に参加した際、帰国直前のPCR検査で妻がコロナに罹患しているのが判明し、その後、私もコロナに罹ってしまいました。教会の皆さんにご心配をおかけしましたが、およそ二週間遅れで戻って来ることができました。帰って来てから妻とよく話しますが、帰るところがあるから旅は楽しいのだ、と。逆に行く先が分からなくてどこかに連れていかれるとしたら、本当に心配です。でも南林間に住まいがあるから、安心してアメリカでも、どこにでも行くことが出来る。そしてコロナに罹っても、ここに戻って来れると思うから、静かに療養できたと思います。
旅人とは、旅先に居る者、目的地を目指して途上に居る者ということでしょう。言い換えれば、この地上は、あくまでも「旅先」であるという理解です。
何十年、一つのところに住んだとしても、それは旅先であることに変りはない。本当の自分の故郷は天であり、この地上にあっては、あくまでも「仮住まいの身」、別の訳の聖書では「寄留者」であるという理解です。さらに、聖書によれば、主なる神さまは、旅の途上にあって人生の四季折々の喜びを備え、楽しませてくださるお方です。
先日、妻と驚いたのですが、だれも教えてもいない、誰も呼びかけてもいないのに、ちょうどこの時期になりますと、牧師館の庭に彼岸花がツツツツッツーと伸びて花を咲かせる。六月に、サンフランシスコのホテルに隔離されていた時、日本人教会の方が、ピンク色の紫陽花を花瓶に入れて持って来てくれましたが、それを眺めながら、南林間の牧師館に咲く紫陽花のことを本当に懐かしく思い出していました。
私たちの人生は旅ですから、超特急列車に飛び乗ってただ目的地に向かって突っ走るだけではありません。周りの風景を楽しみ、そこで出会わせていただいた人々と同伴する。時には同じ経験を分かち合うような、極めて人間らしい生き方です。
何十年も牧師である夫を支え教会のために尽くしてきた、ある牧師夫人が、若い牧師夫人たちが集う修養会で、「人生の四季折々を楽しむように」と熱く語っている講演を聴いたことがあります。子どもが小さい時、なかなか子育てを楽しむことができません。ただ過ぎ去ることだけを願う。新幹線にでも乗って、あっという間にそこを通過して、目的地に少しでも早く到着することだけを願う。でも、少し旅をしてきた者にとっての実感はどうだろう?〈もっと、ゆっくり、その時、その時を味わえばよかった〉〈あの時が本当に懐かしかった〉としみじみ思い起こすものだ、と語っていました。
人生は「旅」ですから、当然、目的地があります。ただそこに行くのにスピードを競っているのではない。その人その人のペースがある。一人ひとりの誕生日が違うように、一人ひとりの旅のペースもそれぞれなのです。ただ、今朝も覚えておきたいのですが、私たちの旅には、最良の同伴者である主イエスが共に旅をして下さっているという事実です。そのことをはっきりと語っているのが、今日の旧約聖書の朗読箇所、イザヤ書の御言葉なのではないでしょうか。これは、本当に慰めの言葉です。疲れて歩けなくなっても大丈夫。「私が背負う」と約束しておられるのです。私たちに向かって主なる神さまは、「母の胎を出た時から私に担われている者/腹を出た時から私に運ばれている者よ」と呼びかけておられる。
「あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」
勿論、実際には様々な人々の手を借りたり、介護されたりしてて支えられるのですが、そうした人々を遣わし、時宜にかなった様々な出来事や事柄を通し、神さまは最後の最後まで旅を導きますよ、と約束しておられる。ですから私たちは、そのお方に背負ってもらえばいい。まだ歩けるときは、イエスさまの後に従えばいい。そのお方に繋がりながら導いていただければいい。そのお方に励まされ慰めていただきながら旅を続けるのです。

Ⅲ. 「空手(くうしゅ)」

何年か前ですが、敬老感謝の祝いの歳を迎えた教会員の方から、「空手」と書いて「くうしゅ」と題された詩をいただきました。
《空手》
“いつだったか、何でだったか忘れたけど、この言葉を耳にし、また目にした。この言葉が心に残った。読んで字のごとしで手には何もない。「から」である。改めで、どういう意味なんだろう、と考えてた。
私の聞き取り違いか、見違いか分からないけれど、〈そうか〉と納得した。
それは、人は何も持たずに生まれてきた。そして、何も持たずに死んで行く、ということのようだ。
長年生きて来て、世の中の様々なしがらみに汚されてきた。その生涯が長ければ長いほど、身についたしがらみは大きい。
知恵や知識、名誉、知名度、財産、そうしたしがらみを脱ぎ捨ててはじめてかの地に迎えられる。
これこそ「浄化」と言えるのかもしれない。「浄化」されて初めて人は安らかになる。
この言葉と前後してまた新しい言葉が目に入った。「70歳からのひとり暮らし・・遠藤順子」のなかに「70歳すぎたら、おつりの人生」とあった。おつりの人生とは余分なおまけの人生という意味ではない。70歳という長い歳月を、自然から、動植物から恵みを受け、たくさんの人々に支えられ、守られて生きて来た。
70歳を機におつりの人生をどう送ればよいのだろうか。物を買った時、余計に払ったらおつりを返してもらうでしょう。人から与えられた分と人に与えた分の差額をおつりとしてお返しすることです。
誕生から今までどれほど多くのものを与えられて来たことだろう。それに比べて人に与えたことが何と少ないことかと思い知らされる。おつりとはボランティアとして社会に愛のお返しをすること。肉体的に働くことだけではない、ゆっくりと相手の話を聞くこともある。食事を共にすることも、手紙を送ることも、そうしているうちに自分も年を重ねて動けなくなる時がくる。
返しそびれたおつりはたくさん残っているかもしれないが、残りは残りで、その時はその分を周りに甘えるのも返すおつりかもしれない。そして、生涯のすべてを神に感謝して祈りの生活で終わる。こんな老いの生き方はどうだろう。一つひとつお返しして、身に付いているものを脱いで軽くなって、綺麗になってかの地に行きたいものである。“
この方が、最初に出合った「空手(くうしゅ)」という言葉、そして次に遠藤順子さんの「おつりの人生論」を頼りに、今一度、「与えられたもの」に目を留めることによって、その「与えられたもの」を与えてくださった恵みの神さまへの感謝と祈りへと導かれていきたい、という思いが伝わってきました。

Ⅳ. 同伴者・主イエスと歩む旅

冒頭でご紹介した速水さんですが、退任記者会見で、「キリスト教に関係のない方にとっては、何言っているんだ、という話かもしれないが」、と前置きをした上で次のようなことを語られました。
“イザヤ書という中に、『怖れるな、我は汝と共にある』という言葉がある。『主、共にいます』ということ。これが一つであり、神さまはいつでも私のそばに付いていてくれている。
二つ目は、「主、我を愛す」、これは、幼稚園の時に歌った歌だが、神さまは私を愛してくれているということ。
三つ目はやはり、「主、全てを知りたまう」、神さまは、どんなことがあっても全てのことを知っており、全てを知った上で正しい判断を行い、正しい事をやっていれば、神さまは守って下さるということ。そういう極めて単純な信仰を持って、事にあたって来たつもりだ。“
そして、この時、この話を聞いた記者が、説教の冒頭で紹介した言葉、「私にとって、この小柄な老人は、日銀総裁としてよりもキリスト者として強く記憶された。そして速水さんを取材すればするほど、『帰るべきところ』をもつ人なのだと感じ入ることになる」としみじみと語ったとおりです。「帰るべきところを持つ人」、私の心に残った表現です。
速水さんは、この分厚い聖書を執務室に置き、大切な決断をする時に読み、また手を置き祈られたと思いますが、つねに三つのことを覚えながら過ごしたと証ししています。第一は「主、共にいます」、第二は「主、我を愛す」、そして三つ目は、「主、全てを知りたまう」。この証しを聞いて以来、私も小さな手帳に、この三つを書き留め、時々、手帳を開いては、確認しながら毎日過ごしています。
「主、共にいます」、「主、我を愛す」、そして「主、全てを知りたまう」。このお方が、私たちの人生の旅を導き、ご自身が造ったがゆえに、担い、背負い、救ってくださる。この恵みの中に、今、私たちが生かされていることを覚えつつ、とくに一つの区切りとして75歳を迎えられた方々の上に、主からの祝福を祈り求めたいと思います。
お祈りします。

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