キリストにあって一つ

2018年8月26日
「合同礼拝」
松本雅弘牧師
フィリピの信徒への手紙2章1~4節

Ⅰ.一致を破壊する利己心と虚栄心

今日は年に一度の「合同礼拝」です。私たちは、普段は異なる言語で礼拝を捧げています。聖書によればクリスチャンは、福音という共通語を与えられている神の家族同士であり、4つの異なった言語で礼拝を捧げている私たちが、一緒に礼拝を捧げる「合同礼拝」は、私たちはまさにキリストにあって一つであることを経験する主の日の礼拝でもあるのです。
私たちの主イエスは十字架の直前に、「クリスチャンが一つとなるように」と真剣に祈りを捧げられました。これこそが主イエスの御心です。
この手紙を書いたパウロも福音にふさわしい生活の中身として、キリストにある一致ということを説いています。
今日の個所で第1に注目したい点、それは私たちの生まれながらの性質は、一致とは逆の方向に働くということです。ここでパウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」(2:3)と言って、一致を破壊する罪の問題、利己心と虚栄心に触れていきます。利己心とは、自分のこと、自分の利益だけを考える心のあり方です。そして虚栄心とは「高ぶり」とも訳せる言葉で、背伸びをして、自分を良く見せようとする心です。こうした利己心と虚栄心を抱く私たちが、一致を求めたとしても必ず行き詰まるのです。

Ⅱ.共にキリストを見上げる一致

ではどうしたらよいのでしょう。ここでパウロは、第2のポイントとして、福音にふさわしい生活の中身としての一致が、共にキリストを見上げることによって与えられると語ります。
私たちは、出身校や故郷が一緒であるということで、何か一致しているというような錯覚を持つことがあるでしょう。でもそれは、数10年前の出来事を共有するということであって、ここには、お互いを受け入れ合う一致という中身はありません。
しかし、2章1節を見ていくと、ここでパウロは、「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり」という、中身の詰まった信仰による一致を求めていることが分かります。
主イエスを見上げ、礼拝し、神を神とする時、私たちは1つとなり、その結果としての祝福が約束されているのだとパウロは説いていきます。
キリストを見上げる時、私たちは励ましを受けるのです。傷ついた心をもって主の御前に跪いて祈る時、主イエスは、私を受け止めてくださいます。
私たちが経験する思い煩い、悩み、苦しみをすべて嘗め尽くして、人間の生を生き切ってくださったお方が主イエスさまだからです。そのお方との交わりをいただく時、私たちは心と心が深く触れ合い、何ともいえない慰めを経験いたします。キリストに向かう時に、聖書を通して、神がこの私をいかに愛し、慈しみ、憐れんでおられるのかを知らされます。
そして、この私の隣にキリストを見上げる信仰の友がいる。同じように躓きを覚え、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみを必要としている友がいるのです。この友のためにも主イエスは死んでくださったのです。ですから、私たちはどちらが正しく、どちらが間違っているか、そんなことは問題ではなくなり、自分の意見が通る、通らないといった勝ち負けなどもなくなるのです。私たちのために、ご自分の命を捨てて愛して下さっているキリストがおられのですから、心を一つにして、私たちは共に御心を求めるのです。
神様の御心の実現には、幾つかのかたちがあるかもしれません。しかし目的は1つ、主の御心は宣教です。人間が、御心に適って本当の意味で人間になるためには、神との出会いがどうしても必要です。
先に救われた私たちには、御心を人々に伝える使命が与えられています。その働きに向かって、私たちは1つとなっていくのです。
キリストを見上げ、同じ方向に向かって歩むことにおいて一致するようにと、パウロはフィリピの兄弟姉妹に説いて行きます。「心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と。

Ⅲ.具体例-初代教会の場合

聖書の中に、不一致から一致へと導かれていった具体例がありました。使徒言行録第6章を見ていきたいと思います。
初代教会の宣教の働きが祝された結果として、会員数が大幅に増えてきました。その中で、共にユダヤ人でありながら、ギリシャ語を話すユダヤ人と、ヘブル語を話すユダヤ人の2つのグループに不協和音が起こったのです。具体的な表れとして、やもめの人たちに対する給食サービスの不公平ということに発展していき、キリストにあって1つであるはずのエルサレム教会の一致が脅かされました。そこで、一致を回復するために、執事が立てられていったのです。
ここにまさに、フィリピの信徒への手紙の御言葉の具体的実践例を見ることができます。
彼らがしたことでまず注目したいことは、彼らは、一致を脅かす具体的な問題を、隠すのではなくありのままに差し出したという点です。
ギリシャ語を話すユダヤ人が、「私たちは」と言って、自分たちを主語にして苦情を述べたのです。その結果、苦情を伝えられた使徒の側の責任が明らかにされていきました。
私たちは、苦情を受けるとどう反応するでしょうか。聖書を見ていくと、このような状況の中で、私たちの一致を崩そうとサタンが働くということが分かります。
「問題はたいしたことはない」と、事柄を無視し、過小評価して、あたかも自分でやれるかのように思わせる。あるいは逆に、問題を過大評価し、手遅れであるかのように思い込ませるのです。サタンの働きによって心乱され、その結果として「信仰」ではなく「心配」が働いてしまいます。
このようにして、問題を投げかけられた側の課題、殊に教会の奉仕においては、問題を解決する能力がないということではなく、むしろ、神にゆだねる信頼が弱いということが問題となるのです。
サタンは問題を軽く見せたり、重く思わせたりすることで、問題解決から遠ざけようとします。つまり神に信頼することから引き離そうとするのです。
ここで聖書が教える原則は、問題を問題として認めた上で、神を見上げるということです。
問題があること自体が問題ではありません。その問題をもっていかに神に近づいていくか、そのことが何よりも大事なことなのです。
神さまが私たちに求めておられるのは、「神さま、これをあなたにお委ねします。あなたが最高責任者です」と祈っていくことです。
初代教会は、このようにして執事を立て、日々の配給を公平に行っていきました。その結果、神の言葉はますます広まり、弟子の数が増加していったのです。これがキリストを見上げ、一致して問題と取り組んだ結果、神からいただいた結論でした。つまり、宣教の前進です。
問題の根っこはどこにあったのでしょうか。それは「愛のほころび」でした。自分が正当に扱われていないという不満、教会からなおざりにされていると感じた人々が出てきたという問題です。
文化的な違いという壁を超えることが出来ないという問題。自分とは違う人々を受け入れて一致することができない頑なさ。そのような問題もありました。経済的不平等も現実的な課題でした。
ただ、いずれにしても教会内における愛のほころびが原因でした。ですから、12人の使徒では足りず、愛の網となるべき信徒リーダーとしての執事が立てられて、愛のほころびが癒されていきました。
こうして、初代教会は、問題解決者として執事を立て、キリストにある一致を目指していきました。
その結果として、使徒たちによって御言葉が説き明かされ、その語られた御言葉による励ましの中で立てられた執事たちによって、具体的な愛の牧会の業が展開されていったのです。
ここで聖書が語っていることは、執事を任命することによって教会のなかに分業が起こり、分業の結果、効率よく事が運んでいったということではありません。そうではなく、神さまの御言葉どおりに歩みを進めることによって教会が祝されたのです。
課題を持ちつつ、心を一つにしてキリストを見上げた時に、キリストにある一致が起こったのです。
御言葉がますます豊かに語られる環境、御言葉がまっすぐに聞かれる心の備え、そして、「ほころび」を繕う愛の奉仕が用いられていくとき、教会の宣教の働きが力強く前進していったのです。これが第2のポイントです。

Ⅳ.共に喜ぶために

パウロは、フィリピの信徒にあてて、「わたしの喜びを満たしてください。」(2:2)と語っています。キリストにある一致こそが、教会に連なる者にとっての深い喜びの原因となるということです。
「喜びを満たす」という言葉は、お月様に欠けのない満月の状態を表わす言葉です。キリストを見上げていくときに、必ず一致が起こります。赦し合いが起こり、和解が生まれます。
教会に一致が生まれること、その一致によってこそ、教会に連なる者が他では経験できない深い喜びを味わい、その喜びの源泉となるというのです。〈教会に来ていて良かったなあ〉としみじみ思う、というのです。
今日は4つの礼拝が一緒に礼拝を捧げる「合同礼拝」です。私たちは、いつも一緒の場所で礼拝を捧げてはいません。しかし、国籍を天に持つ神の民同士であり、私たちには福音という「共通言語」が与えられている神の家族です。これからも、共にキリストを見上げ、様々な課題をキリストに明け渡して生きていきたいと願います。お祈りしましょう。

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