主イエスはわたしの羊飼い

2018年9月16日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書46章3~4節
ヨハネによる福音書10章7~14節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

お母さんのマリアと兄弟たちが、イエスさまを呼びにやって来た時のことです。大勢の人にとり囲まれているので、そこに居た人に呼びに行ってもらいました。
「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、それに対して主イエスはおっしゃったのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:32-34)
「神の御心」とは主イエスを信じ従うようになることです。そうした人こそが自分にとってお母さんであり兄弟・姉妹なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
そのように考えると、今日、週報に名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、そしてまた、兄弟姉妹ということになるでしょう。こうしてお祝いできますことを、本当にうれしく思います。
今日は敬老感謝礼拝です。高座教会では、信仰の先輩、人生の先輩である75歳以上の方々を、守り、導き、祝してくださる神様を共に礼拝し、これからもお一人お一人に祝福があるようにと、このような特別礼拝を行なっています。

Ⅱ.過去・現在・未来の私を背負ってくださる神さま

イザヤは次のような神の言葉を取り次ぎました。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
これは老後について教えているというより、神がどのようなお方なのかについて語っています。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう」と、神さまが約束しておられるということなのです。
ところで、ここに「負う」とか、「担う」とか「背負う」という言葉が繰り返し出てきます。一つひとつ異なる言葉ですが、同じような意味があります。
新約聖書にも、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:10-14)とあるように、主イエスが私たちの羊飼いとして羊を養ってくださる。迷子になったら肩に背負って連れ戻してくださることが約束されています。
私は、イザヤ書のこの聖句を読むたびに子どもの頃の感覚が甦ってきます。母親や父親の背におぶさった時の記憶です。本当に心地良い。信頼して委ねれば家まで連れて行ってくれる。目覚めると布団の上にいるのです。
神さまは私たちが小さいころに経験した、両親や大人の人に「抱かれ、おぶわれた」と同じように、私たち一人ひとりを背負ってくださるお方だ、と聖書は教えているのです。
たった2節の短い聖書個所で、3節と4節も同じ内容の繰り返しのように読めます。でも注意して読むと1つ大きく違う点があることに気づきます。
それは3節が「神が今までしてくださったこと」を語っているのに対し、4節は「神がこれからの私の人生においてなそうと約束してくださっていること」が語られているということです。3節は今までのこと。4節はこれからのことです。
神さまは今まで何をしてくださったのでしょうか。これを思い巡らしたいと思うのです。そして、こうした恵みを数えることは、私たちの信仰に確かさを与えるのです。
就職の時、病気の時、子育て真っ最中の時、また、75歳以上の方は、皆さん、戦前、戦中、そして戦後を生きてこられましたから、大変な時に、思いもしなかったような形で、神さまに「背負われる」経験をされたでしょう。3節にあるように、「生まれた時から私を背負い、お母さんの胎を出た時から、担ってきてくださった」ということです。
聖書を読んでいくと、《今までになしてくださった神さまの御業》が、あらゆるところに出てきます。聖書の中に満ち満ちています。神により頼む者に対して、神さまがどんなに慈しみに満ちたお方であるか、そのことが繰り返し、繰り返し語られていくのです。
旧約聖書に記される神の民の歴史、彼らが神さまに対してどれほど反発し、神を無視してきたか。そして、「神の民、イスラエル」と呼ばれるに全くふさわしくない不信仰な歩みをしてきたのです。でも神さまは、そのイスラエルを愛し通されました。新約の時代になれば、そのイスラエルに与えた約束を、御子イエスさまの誕生という形で実現してくださったのです
そして4節です。最初に「同じように」と語られます。これは、「今までそうだったように」ということです。今までもそうだったように、これからも「あなたが老いて、髪の毛が真っ白になるまで、おんぶし続けますよ」というのが、ここで言われていることです。

Ⅲ.「あしあと」

「神さまに背負われる」とは《神さまが最終的に責任をとってくださる》ということでしょう。「あしあと」という詩をご存知でしょうか。こんな詩です。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に2人のあしあとが残されていた。1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあと。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、1人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分りません。』
主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが1つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」
今日の御言葉で預言者イザヤは言うのです。神さまが私を背負ってくださる。共にいてくださるだけではなく、歩けなくなる時、主が私たちを背負ってくださる。そして、私に代わって、しっかりと大地を踏みしめて歩んでくださるというのです。ですから、本当に安心です。

Ⅳ.主イエスはわたしの羊飼い

今日は、「主イエスはわたしの羊飼い」と説教題をつけました。でも後になって考えたのですが、主イエスは、「わたしは羊飼い」と言われただけでなく、「わたしは、…羊のために命を捨てる」とまでおっしゃったのです。
パウロは、そのお方のことを、こんな風に表現しました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントⅡ 8:9)
羊飼いなる神は、豊かに与えてくださる気前のよいお方です。ですから私たちにとって欠けはありませんし、むしろ豊かにされるのです。
そして、そのお方は私たちを憩いへと招き、そこで私たちは回復し、活力を取り戻します。痛みを伴うような、最も苦しい場面においてさえも、羊飼いなる神さまは、私たちを導き、逃れの道を用意してくださるのです。いつも、どんな時も私たちと共に居てくださるので、私たちは恐れることなく生きることができるのです。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)
私たちに危害を加えようとする者たちの前にあったとしても、羊飼いなる神さまは、私たちのために、何と「食卓」さえも準備してくださるのです。私たちの必要を満たしてくださるだけではなく、必要以上に豊かに施してくださり、私たちの杯を溢れさせてくださるのです。さらに、「死の陰の谷を行くときも・・わたしは災いを恐れない」(4節)とあるように、私たちの羊飼いである神さまが共に歩んでくださる時、試練や苦しみに遭う、そのような時期をも含めて、人生全体が善いものであり、主の憐みそのものとして見ることができるというのです。
なぜなら、主イエスこそ、私の羊飼いなるお方だからです。その羊飼いに導かれ歩んで行きたいと心から願います。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
お祈りいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA