受難のキリストに聴く


2016年3月20日 受難節第六主日
松本雅弘牧師
イザヤ書50章4~7節
ヨハネによる福音書12章12~26節

Ⅰ.イエスを迎える2種類の人々

 今日は棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。今日からイエスさまの最後の1週間が始まります。
今日の聖書箇所、ヨハネによる福音書12章 12節の冒頭に「その翌日」とあります。ですから、これはベタニアでイエスさまに香油が注がれた出来事の翌日です。この日、イエスさまはろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。
ヨハネはイエスさまを迎えた群衆のことを、「祭りに来ていた大勢の群衆」と説明していますが、これはこの後、18節に出てくる群衆とは別のグループの人々だったようです。
この中には、前日ベタニアに行った人もいたでしょうし、また中にはガリラヤでの活動や教えに何らかの形で触れていた人々もいたはずです。専門家によれば、この時代、毎年15万人くらいの人が過越祭でエルサレムに上京しただろうと計算しています。
この後、「ホサナ」と迎えられたイエスさまは、金曜日には、群衆によって「十字架につけろ!」と裏切られて行くわけですが、専門家によれば、歓声を上げ、イエスさまを積極的に迎えた群衆は、過越祭のために集まって来た人々で、一方、「十字架に付けろ!」と叫んだ人々は、どちらかと言えば、18節に出てくるエルサレム近郊、もしくはエルサレム在住の人々だったのではないかと理解されています。

Ⅱ.祭りに来ていたギリシア人

 20節に、「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」とあります。この出来事はヨハネによる福音書にだけ出てくる記事です。彼らはイエスさまに会いたいと願っていたというのです。
「イエスさまを見たい」というだけならば、遠くからその姿を見ればよいわけですが、彼らギリシア人たちが願ったことはそれ以上のことでした。そのことをお願いされたフィリポは困ってしまいます。彼は自分1人で判断できなかったので仲間のアンデレに相談します。そして、2人で話しても解決できずに、直接、イエスさまのところにお伺いを立てに行ったのです。
ところで、彼らが判断に苦しんだポイントはどこにあったのでしょうか? それは、「ギリシア人、もしくは異邦人をイエスさまのところにお連れしてよいかどうか」という点でした。私たちは当然のこととして、「いいに決まっているじゃないか」と判断するでしょうが、この時の彼らにとっては難問だったようなのです。
ヨハネによる福音書の記述を振り返ってみますと、福音書に記されているイエスさまの宣教活動はパレスチナが中心で、異邦人との接触はたいへん稀でした。確かに、イエスさまは、色々な人と関わりを持って来られました。徴税人、罪人、罪の女と呼ばれていた人々……です。でも、異邦人との出会いは、ヨハネによる福音書に限定すれば、4章に1回だけ、サマリアの女とイエスさまとのコンタクトの記事が残っているだけです。ですからフィリポが戸惑ったのも無理のないことです。
エフェソの信徒への手紙で、パウロがこのことについて語っていますが、ユダヤ人と異邦人の間にあった「隔ての壁」は、私たちが考える以上に頑丈な壁だったようです。
ユダヤ人からして異邦人の存在は、物凄く異質なものであり、全く別な存在でした。ですから、そうした彼らを隔てる壁は、私たちが考える以上に、高く、分厚い「隔ての壁」だったようなのです。
ですから、いつもでしたら、訊ねる人をすぐにイエスさまのところにお連れするフィリポであっても、異邦人であるギリシア人から「イエスにお目にかかりたい」と言われて、お連れしていいものかどうか、判断に困ったので、弟子仲間のアンデレに相談したのです。
すると、アンデレはためらうことなくイエスさまの所に行って、お話ししたのです。つまり、ギリシア人をイエスさまに執り成したのです。

Ⅲ.栄光を受ける時

 頼まれ上手のフィリポが動き、人をイエスさまにお連れすることを使命と感じているアンデレの執り成しによって、彼らギリシア人はイエスさまのところに行って、何をお話ししたのか、という問題が残ります。いや、果たしてイエスさまは、彼らギリシア人とお会いしたのでしょうか。この点についてヨハネ福音書はまったく沈黙しています。
福音書記者ヨハネは、起こった出来事全部を記録しているわけではないということを、ここで心に留めておきたいと思います。その上での想像ですが、たぶんイエスさまは彼らギリシア人とお話ししたでしょう。かなり長い時間、会話されたかもしれません。でも、そのやりとりがヨハネによって書き残されていないということは、ヨハネの執筆意図からして書き残す必要のない会話だったからだと思います。とするならば、逆にここでヨハネが書き残していることが、とても重要なことになります。
では、その書き残されていることって何でしょうか。それは、イエスさまが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたこと、主がそう判断されたことです。
ここに「時が来た」という言葉が出て来ます。ヨハネ福音書を見ていくと、特に、この「時」という言葉がキーワードのように使われていることに気づきます。ところが12章のこの時点まで、「イエスさまの時がまだ来ていなかった」のです。今まで何度も繰り返し、主の口から「わたしの時はまだ来ていない」という言葉が語られていました。
今日の箇所、アンデレを介してギリシア人がイエスさまに会いたいと言って来たこの時点を境に、これ以降を見ていくと、例えば、13章1節、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とありますし、16章32節にも、また、十字架を直前にした最後の晩餐の席上で捧げられた「大祭司の祈り」の冒頭の言葉、17章1節に、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、イエスさまが祈られたことをヨハネは伝えています。
つまり、異邦人の代表であるギリシア人たちがイエスさまのもとに来たのが、まさに合図であったかのように、ユダヤ人をはじめとして、異邦人全ての人の罪を背負って十字架で救いを達成しようとする、その「わたしの時が、遂に来た」とイエスさまは判断され、そのようにおっしゃったのです。そして、このことこそが一大事なのだ、とヨハネはここでメッセージを伝えているわけです。

Ⅳ.キリストへの信仰と服従

 19節をご覧ください。「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。』」
 これはファリサイ派の人々の言葉です。今、まさにその言葉の通りに、「世をあげて」、すなわち、全世界の人々に投げかけられる問いかけが、イエスさまによってなされようとしていたのです。
これが、この時のイエスさまの問いかけです。「はっきり言っておく。……自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』」(24~26)
いかがでしょうか。ユダヤ人でも、異邦人の代表であるギリシア人でも、全ての人が、このイエスさまの十字架の愛の対象です。同時に、ユダヤ人でも異邦人でも、全ての人が、このイエスをキリストと信じ、キリストに従う意志はありますかと、主は、私たちに問いかけておられるのです。
私たちが、洗礼を受けたのは自分の幸せのためにキリストを利用するためではありません。天国に行けないと心配だから、その切符だけは手に入れておきましょう。いざと言う時の保険のように、と言った感覚で洗礼を受けるのでもないのです。
洗礼を受ける時の質問の1つに、「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」と尋ねられますが、これは、あなたはイエスさまを、「罪からの救い主と信じ、そして、人生を導く主人として従いますか」という問いかけです。
今日から受難週に入ります。もう一度、イエス・キリストへの信仰と献身を新たに受け取り直す1週間となりますようにと祈ります。
そしてまた、全ての人がイエスさまの十字架の愛の対象ですから、今日、登場したアンデレのように、まだイエスさまを知らない家族やお友達をイエスのもとにお連れする働きをさせていただきたいと願います。
お祈りします。

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