キリストの心で教会は建つ
宮井岳彦牧師 説教要約
サムエル記上24章8-18節
ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
2023年7月16日
Ⅰ. イエスさまが大好き
私は神学生の頃から今に至るまで、「説教塾」で学びを続けています。牧師たちが説教を学ぶ自主的なグループです。指導してくださっているのは加藤常昭先生。元鎌倉雪ノ下教会の牧師であり、また、私が学んだ神学校である東京神学大学の元教授です。(私が在学した頃には既に神学校での働きは終えておられました。)この先生はとても魅力的な方と私は思っているのですが、どういうところに惹かれるかと言えば、何よりも、主イエスさまが大好きなところです。加藤先生の説教を聞いたり、祈りに耳を傾けたりすると、この人は本当にイエスさまを愛しているのだなと伝わってきます。自分もそういうキリスト者になりたいと思うし、そういう牧師になりたいと心から願っています。
もうすぐ高座教会では洗礼準備会が始まると聞いています。洗礼は、主イエスさまへの愛の告白です。主イエス・キリストを愛する人生は、他の何よりも幸いで、美しい人生だと私は信じています。少しでも気になっている方、ちょっとでも迷っている方はぜひ準備会にご出席ください。主イエスとの出会いは人生を変えます。必ず変えます。少しずつ、しかし確実に、主イエスの愛が私たちを新しくしてくださいます。キリストの愛が私たちの喜びとなり、神さまが私を喜んでくださっていることに気づかせてくださいます。キリストを愛する幸い、キリストに愛されている幸いに、あなたも、私も、招かれているのです。
Ⅱ. 罪の女と主イエス
今日私たちに与えられている御言葉はガラテヤの信徒への手紙の一つの箇所ですが、これは「日毎の糧」という聖書日課で指定されているものです。この日課では、主の日に読むべき聖書の御言葉として四つの箇所が指定されている。その内の一つがガラテヤの信徒への手紙6:1-10であり、或いはサムエル記下24:8-18です。しかしそれだけではない。福音書も指定されています。今日はルカによる福音書第7章36から50節でした。これは「罪の女」と呼ばれる一人の女性と主イエスとの出来事を伝える、聖書の中でももっとも美しい物語の一つです。
主イエスがファリサイ派のシモンという男の家で食事をなさった。するとそこに一人の罪深い女が入ってきて、主イエスの背後に立ち、イエスの足もとで泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻し、石膏の壺に入った香油を塗りました。側にいた人はびっくりしたことでしょう。殊にその家の主人シモンはその女のことも、それをお受けになった主イエスのことも、内心軽蔑していたようです。これは「罪深い女なのに」と。しかし主イエスは彼女の愛を喜んで受け入れました。例え誰が彼女を軽蔑したとしても、主イエスは彼女を受け入れ、彼女の愛を受けとめて喜んでくださったのです。
イエスさまは本当に優しい方です。柔和な方です。例え誰に軽蔑されたり、のけ者にされたり、これまでの生き方を間違ってしまったりしたとしても、側に来た私たちを喜んで受け入れてくださいます。私たちの示す愛がどんなに小さく、どうしようもないものだったとしても、そのわずかな愛を喜んでくださいます。それが主イエスの優しさ、主イエスの柔和さです。
Ⅲ. 柔和な主イエスがしてくださったこと
使徒パウロは言います。「きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは柔和な心でその人を正しなさい。」(6:1)パウロは「柔和な心で」と言います。それは主イエスさまの心で、ということです。キリストの心をもって受け入れる。言葉を換えれば、あなたが主イエスにして頂いたように、ということです。
イエスさまは私たちが例え誰から後ろ指をさされ、軽蔑され、嫌われ、裁かれていたとしても、受け入れ、ほんの僅かな、芥子粒(けしつぶ)のように小さな愛さえも見逃さないでいてくださるのです。
ファリサイ派のシモンは「罪深い女なのに」と彼女を軽蔑し、されるがままにされている主イエスを軽蔑しました。シモンは町の噂話や、みんなの評価を基準にして彼女を裁き、罪深い女と言って切り捨てていました。しかし本当は、彼女の「罪」は、彼女自身と神さまとの間で問われるべき事のはずです。本当は、誰がどう言うかということではなく、神さまの御前に自分は何ものなのかを問うべきことなのではないでしょうか。
イエズス会の創設者であるイグナティウス・デ・ロヨラがこのような祈りを残しています。
ああ、キリスト・イエスよ
すべてが闇に閉ざされるとき
そして、自分が弱く、寄る辺なく思えるとき、
どうか、感じさせてください、あなたのご臨在を、
あなたの愛、あなたの強さを。
この一人の信仰者は祈ります。私は闇に閉ざされている、私は弱く、寄る辺ない、と。闇の力の前に私は無力だ。弱く、力がない。わたし一人では寄る辺なく、負けてしまう。闇の力を前にして、私はどうすることもできない。罪の力に対抗できない。どうして、私は望んでいる善を行うことができないのか。どうして望まない悪に引きずり込まれてしまうのか。どうしてこんなにも闇の力、悪の力を前に無力なのか。私たちの弱さのいちばんの急所は、罪です。
主イエスさまが私たちにしてくださったことは、本当は、私の罪を負ってくださったということです。ただ優しくしてくれた、孤独を埋めてくれた、ということ以上のことです。キリストは私の罪を負ってくださった。私はこの方を十字架にかけた。罪の力に任せて神の子を殺した。その方が罪の闇から私を救ってくださった。なおキリストは私を愛し、私をご自分の喜びとしてくださった。
「柔和な心でその人を正しなさい」とは、そのことです。主イエスが私のためにしてくださったこと、それは罪の私を愛してくださった、ということに他ならないのです。
Ⅳ. 最低最悪の罪人
「もし、誰かが過ちに陥ったなら」と言っています。これは明らかに教会の話です。しかも良いときの話ではない。誰かが罪を犯し、過ちに陥り、間違いを犯し、周りに迷惑をかけているような時のことです。そんな時、教会はどうするのでしょうか。あのファリサイ派のシモンのようにその人を裁くのか?噂話で判断するか、或いは、自分が噂を流すのか。そうではない。柔和な心でその人を正すのです。
この「正す」というのがまた難しい。うやむやにしたりごまかしたりするのではない。罪は罪であり、過ちは過ちです。しかしそこで裁くのではなく、柔和に正す。どうしたら良いのか? 2節に「互いに重荷を担いなさい」とあります。これは、本当にすごい言葉だと思います。私たちは、相手の重荷を負う。しかしそれを負おうとした時に知るのは、実は私こそ既に重荷を負って頂いた、という事実です。
「何者でもないのに、自分を何者かであると思う人がいるなら、その人は自らを欺いているのです。おのおの自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分だけには誇れるとしても、他人には誇れなくなるでしょう。」
何者でもない私です。自分を吟味したときに見えてくるのは、主イエスに罪の重荷を担っていただかなくては生きられない私だという事実です。私は最低最悪の罪人だという、ごまかせない事実です。実のところ、私の罪は既に負って頂いている。主イエスに、そして、ここにいる兄弟に、姉妹に。事実、もう既に。だから、一人の人が過ちに陥り、罪を犯したとき、私たちは共に最低最悪の罪人として神さまの御前に共に祈るだけです。教会は最低最悪の罪人の集まりです。そうであるからこそ、主イエス・キリストの柔和な愛という光り輝く宝に共に与る群れなのです。
Ⅴ. あなたたちは霊の人
1節に「霊の人であるあなたがたは」とあります。聖書は私たちを「霊の人」と呼びます。これは何か神秘的な雰囲気を湛えている人だとか、特別に信仰深い人だとか、そのようなことではない。私は最低最悪の罪人だと知っている人、しかし、キリストに赦して頂いた罪人だと知っている人です。私たちはキリストに愛して頂いた罪人です。私たちは柔和なキリストが愛してくださった罪人です。だから、キリストは霊の人として私たちに命じます。「もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい」と。キリストの教会は、ただただ柔和なキリストの心、キリストご自身の霊によって建つのです。


