水がめを置いて
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書55章8-13節
ヨハネによる福音書4章27-42節
2023年6月4日
Ⅰ. 最高の出会いを経験したサマリアの女性
「人間が最高の出会いの瞬間から出て行くときは、これに入っていく以前とはまったく違った人間になる」。『我と汝』という本を書いたユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーの言葉です。今日の箇所には、「最高の出会い」を経験した女が紹介されています。
「女は、水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」(4:28、29)
彼女が、井戸にやって来た目的は「水」でした。ところが、主イエスと出会った後の彼女は、汗水流して深い井戸からくみ上げた水の入った「水がめをそこに置い」てしまった。それだけではありません。一日の内で一番暑い時間帯を、わざわざ選んで水汲みに来るほど、誰とも会いたくなかったにもかかわらず、彼女の方から町に出て行って、大勢の人々に「さあ、見に来てください」と主イエスを証している。
そうです!彼女は変えられた。目的だった水が、二の次になってしまった。もっと大切なものを手にしたから、本当に大切なお方との出会いを経験したからでしょう。
こうした彼女の姿を、ある牧師は「彼女の心は喜びで弾んでいたんだ」と表現していました。それまでとは別人、ボールが弾むようにポンポンと飛び跳ねるように喜びに溢れて、水がめをほっぽり投げて、町まで走って行ったのです。
Ⅱ. サマリアの女性を探し求める主イエス
ヨハネ福音書には、主イエスは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。迷える1匹の羊であるこの女性を救うためです。次々と新たな伴侶を求め、離婚を繰り返す彼女の姿に、周囲は呆れていたかもしれません。そして心身やつれた姿でヤコブの井戸までやってきた。すると突然、「水を飲ませてください」という声が聞こえてきた。彼女が羊飼いの声を聞いた瞬間でした。その出会いによって、「水がめをそこに置いて町に行き、『さあ、見に来てください』」と心弾ませる彼女へと導かれていったのです。彼女にとっては、泣きたくなるほど嬉しい、喜びの出来事だったことでしょう。
私は、この時の主イエスの思いを想像するのです。主イエスは「私はよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)とまでおっしゃったお方です。そのような主イエスですから、彼女のことを本当に心配しておられたに違いない。たぶん見出した時は、この女性以上に、羊飼いなる主イエスは喜びにあふれたことでしょう。
Ⅲ. 感動のない弟子たち
ところで、このような「最高の出会い」が起こっている最中、買い物から弟子たちが戻って来ました。その光景を見た弟子たちはビックリしました。
公の場で男性と女性が会話することはタブーでしたし、まして御言葉の教師にとって決してやってはいけないこと。知られたら「アウト」でしたから。ただ、この箇所を思い巡らす中で、知らされることは、弟子たちの感動の無さ、神さまの御業が現わされているにもかかわらず、無感動な弟子たちの姿なのではないでしょうか。
弟子たちの姿を思いめぐらしながら、E.B.ブラウニングの詩を思い出しました。
“この地は天で満ちている/どの普通の柴も神の火で燃えている/しかし、それに気づく者だけが、履き物を脱ぐ/他の者は、ただその周りに座り、木苺を摘む“
出エジプト記3章に出て来る、モーセが燃える柴を見て、そこで主なる神と出会った、あの場面を歌った詩です。この地は、神さまの御業で溢れています。私たちが気づいていようがいまいが、神さまが生きて働いておられる。モーセはそれに、いやそのお方に気づいたので、そのお方の前で履物を脱いだ。生涯忘れることの出来ない、モーセにとっての主なる神との出会い、ブーバーが言う「最高の出会い」の瞬間です。
ところが、その決定的な出来事が起こる、その同じ場に居合わせたにもかかわらず、他の人々は、何もなかったかのように、主なる神の臨在に気づかず、その周りに座り、木苺を摘んでいる。いつもと変わらない日常の風景です。
今日の箇所に出て来る場面に当てはめるならば、サマリアの女はまさに「履物を脱がされる経験」をしました。ところが、同じ場面に出くわした主イエスの弟子たちは、「ただその周りに座り、木苺を摘む」だけなのです。公衆の面前で女性と対話しておられた。しかも相手は憎むべきサマリアの女性です。そうした異常な、それも真っ昼間に水汲みをしている変わった女性と対話しておられる。そうした不思議な光景に出くわしているにもかかわらず、弟子たちは何も言わない。質問もしない。「イエスさま、こんなところで、女の人と話しているところを人にでも見られたら一大事です」と、主を気遣う発言すらない。そうです。全くの無関心。当事者意識がゼロなのです。
実は、弟子たちが目の当たりにしていた光景、サマリアの女性が主イエスに心開き、主イエスと出会う経験をした瞬間こそが、天で大きな喜び、どよめきが起こった瞬間でしたが、残念ながら、そのどよめきや喜びが弟子たちの耳には聞こえてこない。「ただその周りに座り、木苺を摘む」だけで、その喜びを共有できていない弟子たちの姿がここにあるのです。
神さまがおられること。そのお方が慈しみ深いお方であること。仮に、今、理解できないような状況があったとしても、それでもなお、そのお方は信頼できる。
私たちが祈り求めるべきことは、神さまがこの世界において、また私たちの日々の生活の中で、どのように働いておられるのか。神さまの御手の働きに注目すること。「どの普通の柴も神の火で燃えている」とブラウニングが歌うように、私たちの日常の最中で、神の火に燃える柴、言い換えれば神の恵みや御業を、心の目、信仰の目をもってしっかりと見ていくことなのではないでしょうか。
Ⅳ. 「日々のふりかえりの祈り」
主イエスと生活や行動を共にし、主イエスの恵み豊かな説教を聴き、奇跡の御業を目の当たりにしながら弟子たちは無感動、無関心。一方、サマリアの女性は、「水がめをそこに置いて町に行き、『さあ、見に来てください』」と心弾ませる彼女へと変えられていった。
私は牧師ですから、その務めとして、毎週、説教をさせていただいています。そしていつも心に留めるようにしていることは、語ったように自分も生きているか。少なくともそのために修練しているか。そしてまた、語っていることを分かって語っているのか、ということだと思います。たぶん私たちの信仰の先輩たち、歴史の教会の聖徒たちも同じような問題意識、リアルな神さまのお働き、言い換えれば、神さまがいつも共にいてくださる御臨在の内に、日々過ごすにはどうしたらいいのか、ということを祈り求めてきました。そうした中で、多くの人たちが助けられ、実際に、今も取り組んでいるのが、「しばし立ち止まって、ふり返る」と言う信仰の取り組み、具体的には、「神さまへのおささげカード」、この中にある、「日々のふりかえりの祈り」です。
“《日々の生活の中に神さまの働きを発見する》ために、夜、床の就く前に4つの問いを思いめぐらしましょう。
① 今日一日、どのような恵みがあったでしょうか。それを丁寧に思いだし、ゆっくりと味わってみましょう。
② うれしかったこと、幸せに感じたことを思いだしてみましょう。その出来事を通して、神さまはどのように働いてくださったでしょうか。
③ 今日一日の歩みの中で、つらいことがあったでしょうか。赦しを願うことがあるでしょうか。その体験を素直に主に打ち明け、赦しを求めましょう。
④ 私の中に神さまの働きが始まっていることを確信し、それを完成へと導かれる神さまを信じ、希望を持ち、祈って今日の一日を閉じましょう。“
神さまの御前で、この問いを手掛かりに、信仰の目をもって、一日をふり返ること。すると不思議なのですが、そこに神さまからの恵みを見つけたり、また、気づかないでいた出来事が、実は、私にとっての燃える柴の経験であったりするかもしれません。
パウロが獄中で記した、フィリピの信徒への手紙の中に、「感謝」(エウ カリス ティア)という言葉と、「喜び」( カラ )という言葉がよく出て来ます。この二つの言葉の語源をたどると、「恵み」と訳される「カリス」というギリシャ語に行き着く。つまり、神の恵みを見つければ見つけるほど、私たちの心の内側に、感謝と喜びとが起こってくる。使徒パウロは、牢獄に繋がれ、喜ぶ要素など一つもないような不自由で不安定な環境に置かれていたにもかかわらず、その環境に押しつぶされ、腐ってしまうこともなく、守られていたのは、まさに日々、「しばし立ち止まって、ふり返る」という信仰の習慣を大切にしていたからだと思います。
サマリアの女性も、実際に、このような主イエスとの出会いを経験しました。それによって彼女は変えられていった。私たちも日々、私たちを愛し、すべてのことをご存じのお方が、私たちと共に居られ、生きて働いてくださっている、そのお方を、恵みの御業を、信仰の目をもって発見し、それによって感謝と喜びで私たちを満たしていただきたいと願います。
お祈りいたします。
