さあ、パーティの準備ができました

宮井岳彦牧師 説教要約
サムエル記下7章11-16節
ルカによる福音書14章15-24節 
2023年6月11日

Ⅰ. あなたは、なぜここに?

今、あなたはどうしてここにいるのでしょうか。それは、神があなたをここに招いてくださったからです。「もう準備ができましたので、おいでください。」キリストがあなたを招いておられる。その招きに応じて、あなたはここにいるのです。
私たちは礼拝に行くために、自分のスケジュールを整えたり、体調面でも準備をしたり、その日その時に備えます。オンラインで礼拝を献げている方も同じです。礼拝を待ち望み、私たちも準備する。実はその背後に、私たちの準備に先立つ神さまのご準備があるのです。他でもなく神さまが私たちを招いてくださったという事実がある。イエス様が私をここに招待してくださった。他の誰でもなく、イエス様が。だから、私は今ここにいる。他の何にもまして、嬉しい事実です。
さがみ野教会では、子どもへの伝道に取り組んできました。子どものための集会を計画し、路上に出てビラを配り、子どもたちを教会に招きました。教会堂で、来てくれた子どもたちのフリースペースも始めました。日曜日の礼拝に招くために、教会を挙げて歓迎してくださいました。イエス様が君を招いているよと、子どもたちにはその事実を知ってほしい。そして、主イエスが招いてくださっているという事実だけを信じて、重ねてきた営みです。
主イエス様が招いてくださっている。その事実は、皆さんにとっても全く同じです。キリストがあなたを招いてくださっている。この礼拝へ。「もう準備ができましたので、お出でください。」ようこそ、神の国の宴、神の国のパーティへ。もう、準備は整いました。

Ⅱ. 招く喜び

招待されるのも嬉しいことですが、招待するのもまた嬉しいものです。高座教会ではたくさんの結婚式が挙げられてきました。その日のための準備は大変です。しかし、あの人にも来て頂きたい、この方にも出席していただきたいと、招待客の顔を思いながら準備を進めるのは楽しい時間でもあります。私も覚えがあります。これまでお世話になった方たちのお顔を思いながら、ワクワクして準備しました。
16,17節にこのようにあります。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。」これが、当時の宴会のしきたりだったようです。まずパーティの計画を伝えておく。出席の可否も確かめておくのでしょうか。そして当日、その時刻を迎えると、僕を遣わしていよいよ本番のご招待をお伝えする。「もう準備ができましたので、お出でください。」この招待を伝えるとき、パーティを主催した主人は嬉しかったことでしょう。いよいよ宴会が始まる。みんな喜んで来てくれるに違いない!
これは主イエスが聞かせてくださった譬え話です。神さまが私たちを神の国の宴、神の国のパーティに招いてくださっている、という話です。そうとすれば、最初にパーティ開催の知らせをしたのが旧約の預言者たち、そして「もう準備ができました」と伝えた僕は主イエス様のことなのでしょう。

Ⅲ. あまりに凄まじい怒り

他でもない主イエス様が招待してくださっているという驚くべき事実に気付いていたら、その後起こったことも少し違っていたのではないかとさえ思います。招待された人々は次々にパーティへの出席を断りだしました。「ところが、皆、一様に断り始めた。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」どれもこれも、考えてみればもっともな理由です。畑も牛も、生活のために欠かすことのできないものです。やむにやまれぬ仕事の都合です。結婚したばかりの妻を置いていけないというのも、その通りでしょう。新婚の人にとっては、もしかしたらちょっと酷な招待だった。どれも大切な事情です。別に、「ちょっとヤボ用が」とごまかしたわけではないし、「あなたのところには行きたくない」と拒んだわけでもない。とても大切な事情をそれぞれに抱えていた…。
ところが、それに対して宴の主催者たる主人はかなり激しく怒りました。「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言います。更には「街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」とさえ言うのです。そして最後には、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」。かなり凄まじい言葉です。
皆さんが社長秘書か何かをしている。社長の就任パーティに招待客が全然来なかった。すると社長は激怒して、町にいる貧しい人を呼んできなさい、と言う。それでも席が余っていたら、そこら辺を歩いている人を誰でもいいから、無理にでも連れてこいと言い出す。……そう考えると、あまりにも常識外れです。

Ⅳ. このパーティは絶対中止になりません

しかも、ここで主イエスは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」とおっしゃいました。当時の社会でもっとも差別されていた人たちです。神さまの祝福から漏れている人たち、と見なされていました。
この話をちょっと意地悪く聞こうと思えば、このように聞くこともできるかもしれません。譬え話の主人は、招待を断った最初の招待客への当てつけとして、この人たちを招いた。お前たちが来ないのなら、代わりにこの人たちを呼ぶ。お前たちが差別するこの人たちが今や私の客だ。お前たちはもう必要ない。……もしも本当にそうなのだとしたら、もうこのパーティはあまり楽しくなさそうです。主人の怒りとプライドが支配する、ギスギスしたパーティになってしまったのですから……。
恐らく、この感想は、とても大切なことを忘れていることから生まれているのだと思います。この宴、このパーティへと私たちを招待してくださった「僕」、イエス・キリスト。この御方のことを忘れてしまったところから生まれてきた勘違いです。私たちを天の国のパーティに招待してくださったのは、他の誰でもなく、私たちの主イエス・キリストです。この事実こそが神の国のパーティの本当の価値なのです。
常識的に考えれば、招待客が皆来なければパーティは中止です。主催者はメンツを潰されたと怒り、欠席した薄情者とは関係を断つことでしょう。ところが、このパーティは中止にならないのです。絶対に。それは、このパーティが神の国のパーティだからです。主イエス・キリストが私たちを招く神の国の宴だからです。だから、絶対にこの宴は中止にならないし、なってはならない。なぜなら、神の国はもう来ているからです。
神の国はもう来ている。だから、神の国の宴は絶対に中止にならない。神の国は、いつ来たのでしょう?それは、マリアが人口調査のためにベツレヘムへ行き、初子を飼い葉桶に寝かせたときからです。神の国は来た。それは、天使が羊飼いに「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた夜にです。神の国はもう来たのです。それは、いくらでも挙げられますが、主イエスがザアカイに「今日はあなたの家に泊まることにしている」といった日であり、主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈った日であり、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げた日のことです。神の国は来た。だから、その宴は必ず祝われる。
神の国が来ているという現実は、私たちの目にはよく見えません。伝道してもなかなか上手くいかないし、コロナの3年で教会は本当に傷みました。しかし、もう準備は整っています。神の国で祝われる宴の準備はもう整いました。だから、私たちはこの招きを断ってはならないのです。
貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人は、自分ではどうすることもできないし、招かれても何のお返しもできない人です。つまり、私たちのことです。神さまの前に貧しく、何もできず、ただ神の招きだけによってしか救われない。そんな私たちを、神が招いてくださいました。私たちにはそれしか無い。いや、それだけで良い。無理に連れ出されたからこそ、私も神の国の宴、即ち礼拝の喜びにあずかっているのです。キリストがあなたを招いてくださいました。ようこそ、神の国の宴へ。準備は、もうすっかり整っています。