イエスの名による福音
和田一郎副牧師 説教要約
使徒言行録4章5-12節
2023年6月18日
Ⅰ. 名前には力がある
ある年の夏に妻と北アルプスの燕岳に登りました。きつい登りで稜線にでるまでもう一息という所で、通りすがりの人が「そこを越えると槍が見えますよ」と、一声かけてくれました。槍ヶ岳のことです。どの角度から見ても一目でそれと分かる綺麗な三角錐の山。槍ヶ岳を眺めると「ほっとする」、そういう人も多いと思います。「そこを越えると槍が見えますよ」と、一声かけてくれて元気がでた。名前には力があると思いました。
山あり谷ありの人生もイエス・キリストという名によって救われたという人の数は数えきれません。しかし、キリストの名前によって苦しみを受けた人も多くいました。それはイエス様ご自身が弟子たちに語っておられたことです。「人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ 21章12-13)。
Ⅱ. 生まれつき足の不自由な男
ペンテコステの出来事で、弟子たちに聖霊が下り、あの臆病だったペトロが素晴らしい説教をして、それを聞いた人びと3千人もの人たちが洗礼を受けました。この時に教会というものが生まれました。当時の教会というのは、ほとんどが家の教会で、小さなグループに分かれて家で祈り合うというものでした。しかし早速、迫害も起こったのです。ある日、ペトロとヨハネが神殿に上っていくと、生まれつき足の不自由な男が運ばれてきました。彼は門に入っていこうとするペトロとヨハネに施しを求めたのです。ペトロは「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると、この男は踊り上がって立ったというのです。大勢の人々が驚いて集まってきました。どうやって不自由な足が癒されたのか?ペトロは集まってきた人々に向
かって、イエスの名によって、この人は癒されたと話したのです。長年歩けなかった男を知っている者たちにとって、現実に足が癒されて立っている本人が横にいるのですから、人々の心にイエスという名前が強く刻み込まれました。この時にイエス・キリストを救い主と信じた者が五千人ほどであったとあります。そのことによって彼らが、ユダヤ人の指導者たちに捕えられ、尋問を受けたことが語られています。
逮捕され、一晩監禁されたペトロとヨハネは、翌日「サンヘドリン」と呼ばれていたユダヤ人の議会に立たされました。彼らは誰の権威によってこんなことをしたのかと、二人に問いただしました。彼らは、イエス様の裁判のときと何も変わっていないのです。ペトロは「ナザレの人イエス・キリストの名によるものです」と語ったのです。サンヘドリンの議員たちは、あっけにとられたでしょう。「十字架で罪人として処刑された男の名前に力などないだろう」。彼らは思ったでしょう。
Ⅲ. 隅の親石
しかし、ペトロは続けて、「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ 隅の親石となった石』です」と。詩編118編22節の実現だと語った。家を建てる者、ユダヤ人の生活を建て上げる指導者であるはずのあなたがたが、こんな石は役に立たないと捨ててしまった石であるイエス・キリストが、隅の親石となった。しっかりと生きて支えているのです。要になっている。その名が今も力をもっているとペトロは告げたのです。そして、このイエス・キリストという名は地上のどこでも、この人の名だけが、救われるべき名前であるというのです。ここでペトロが語った話しは、まさしく福音です。聖霊で満たされたペトロをはじめとする使徒たちは、福音を伝え始めました。それは今も続いています。
Ⅳ. 昔、受け取った一通の 良い知らせ
私の元にも福音の手紙が届きました。まだ信仰をもっていなかった25歳のある日のことでした。そのひと月前に母が病気で天に召されたのですが、葬儀も終わってしばらくたった時、母の友人から手紙を頂いたのです。私はその人のことは知りませんでした。「小さい頃の一郎さんの姿しか知らない私は、葬儀の時に立派に成長されている姿を拝見して頼もしく思いました。お母様と病院で最後にお会いした時、家族に遺言書を書いたとおっしゃってました。その中に是非、信仰をもってもらいたいということも書かれてあったのではないかと思います。人生山あり谷ありです、信仰を持つことは、片寄ったガチガチの生活を意味するものではありません。真の自由がその中にあるのです。苦しい時困難に出会った時、正しく導いて下さるお方は今も生きたもう主イエス・キリストです。説教がましいと思うかも知れませんが、これだけはお母様との友情を思う時、書かずにおれないのです。お許しください」。見知らぬ母の友人からの手紙をただ受け取って、ずっと保管しておりました。それから15年という遠回りをして、私は高座教会で洗礼を受けました。ところがこの教会の礼拝に来るようになって「あなた和田頼子さんの息子さん?」と声をかけてくださったのが、あの時に手紙を書いてくださった、この教会の姉妹でした。後日、あの手紙を持ってきて懐かしい思い出を語り、新しい交わりが始まったのです。
福音はキリストによる良い知らせのことです。私に届いた良い知らせにもイエス・キリストの名前が記されていて喜びの知らせとなりました。ナザレの人イエス・キリストの名前には力がある。福音には力があります。その福音というものは、今を生きる私たちにどのような関係があるのでしょうか。過去に起こった出来事を伝える、一つの情報なのでしょうか?そうではないでしょう。
福音という私たちの為に、すでになされたことに応答していくということです。神様は、先行してすでに与えてくださいました。すでに喜びを受けたのです。これから何か善い行いをしなければ福音がなくなるというものではありません。福音は、すでに神様に受け入れられているという知らせです。変わることがありません。私たちができることは、ただ先行して現わしてくださったキリストの愛に、感謝して応答することでしかありません。その応答の仕方が、遅かったり下手くそだったりしても、一向に構わないのです。人によって応答の仕方は違うのですから、人と比べて生きる必要もないのです。自分にとっての応答の仕方を、神様の御心を見つめながら、只々歩んでいく、それが信仰生活です。
Ⅴ. 福音を伝える
そして、福音は良い知らせであるがゆえに、伝えなければなりません。知らせとはそういうものです。福音を伝える、それは宣教の働きです。宣教の目的は、自分達の同類を作ることではありません。その人にイエス様は、何をされようとしているのか。一人ひとりに、キリストの視点で寛容な姿勢を持ち続けて共に歩む営みです。キリストを信じる人は、日本においては少数派です。迫害とまではいかなくとも冷たい反応はあるでしょう。しかし、無学な漁師だったペトロが、聖霊の力によって力強く語ったように、母の友人が手紙を一筆書いたように、福音は良い知らせとして伝えていくものです。
「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。」(テモテ手紙二1章7-8節)
福音が語られるところには、それを阻止しようとする人たちが必ず現われる。しかし、イエス・キリストの名には力があります。聖霊によって、恐れることなく救い主である主イエス・キリストを宣べ伝えていきましょう。
お祈りいたします。


