一人ひとりに

和田一郎副牧師 説教要約
イザヤ書43章1節
使徒言行録8章26-40節 
2023年6月25日

Ⅰ. 誰について・・・

今日の聖書箇所に出てくるのがフィリポという12弟子の一人です。ペトロと同じガリラヤ地方ベトサイダの出身で漁師だった人です。エルサレムの初代教会に迫害が起こり隣の国サマリアの町に逃れました。逃れただけではなくて、サマリアで伝道をしていったのです。続いてフィリポは「ここをたって南に向かいなさい」と天使に告げられ、ガザという町に下る寂しい道で一人のエチオピア人の宦官(かんがん)に出会いました。
エルサレムに礼拝に来ていたのです。現在のスーダンに位置する国からの旅は大変でした。この人は、本当に信じるに相応しい神を礼拝したいという求めがあったのです。しかし、エルサレムの神殿まで行っても異邦人は神殿の「異邦人の庭」までしか入ることが出来なかった。そこは商売人たちが、生け贄となる羊や鳩を売ったり、両替人たちが商売をする場所になっていて異邦人が喜んで礼拝できるような場所にはなっていなかったのです。

Ⅱ. 宦官(かんがん)の救い

また彼が宦官という去勢を受けた人であったので、律法によって救いの資格を失っている人だったのです。この時に宦官が読んでいたイザヤ書は、彼にとって重要な意味をもたらす預言が語られていました。
「主に連なる異国の子らは言ってはならない『主はご自分の民から私を分け離す』と。宦官も言ってはならない『見よ、私は枯れ木だ』と」(イザヤ書56:3-4節)イザヤ書の預言では、救いに預かれないとされていた人たちにも救いがあるという、良い知らせなのです。しかし、最も重要なことが、この宦官には分からなかったのです。使徒言行録8章34節「どうぞ教えてください・・・誰について、こう言っているのですか」。
宦官がこの時に読んでいたのはイザヤ書53章です。屠り場に引かれていく羊のような彼とはイエス・キリストのことです。十字架の受難と救いが語られている箇所です。そこでフィリポは聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせたのです。この宦官はイエス様を救い主として心に受け入れて、洗礼を受けました。

Ⅲ. 宣教「ミッシオ」

今日の聖書箇所は、異邦人への宣教の様子です。キリストの福音は、このようにしてユダヤ人だけではなく異邦人へと広まっていきました。「宣教」とは英語でミッション、ラテン語「ミッシオ」からきた言葉です。もともと三位一体の教理を表す用語です。父なる神がキリストを地上に遣わし、父とキリストが聖霊を遣わしたことを「ミッシオ」という言葉で表現しました。ですから「ミッション」は、神による派遣という意味があります。フィリポも派遣され、宦官もエチオピアに派遣されたのです。宦官が帰っていったエチオピアの地域は現在ではスーダンの地域です。今内戦が起こっているスーダンの南に、南スーダンという国がありキリスト教徒が多数を占めている国です。
今、キリスト教の世界宣教は南米、東南アジア、アフリカの諸国で活発です。フィリポから一人の宦官に伝えられた福音の種は、今大きな実を結びつつあります。一方で、先進国のアメリカやヨーロッパでは、キリスト教会から離れており、信仰をもたない人が増えています。

Ⅳ. 信徒による非公式の宣教

あるアメリカの牧師は、牧師や宣教師ではなく、一般信徒が、宣教の働きの軸になる必要性を語っていました。使徒言行録を読んでいると、初代教会で宣教の働きをしているのは使徒たちだけではなかった。パウロの協力者には、アキラとプリスキラという人がいて、天幕作りの仕事をしながら宣教の働きをしていました。
使徒たちを家に招いて、小さなグループでの信徒による宣教の働きがあったことが分かります。フィリピの町のリディアの家、テサロニケのヤソンの家、コリントのステファナの家など、一般信徒たちによる活動が、日常の生活の中心である「家」でなされていたのです。エチオピアの宦官が馬車で聖書を読んでいる時、フィリポはただ眺めているだけではなかった、声を掛けたのです。そんなささやかな日常の中にある「声かけ」からすべてが始まりました。
わたしが教わった宣教学の先生(篠原基章先生)が「なぜ宣教なのか」という問いに答えていました。
「『なぜ宣教なのか』を問うことは、『なぜ神はご自身の被造物を愛するのか』と問うことと同じことです。教会はこの神の愛の宣教の業に参与するために主キリストによって召し出され、この世に遣わされた宣教の民である。それゆえに、宣教は教会のなすべき活動の一つではなく、教会は宣教そのものである。」と答えておられました。
ですから神様は、ご自分が創造されたすべての被造物を愛している、漏れなくすべての人を愛しているのです。つまり、すべての人を救いに招いているのです。私たちはそれに参与する者です。まず、私たちを愛してくださったから、それに応えていきたいと思うのです。エチオピアの宦官にフィリポが声を掛けたことから、すべてが始まったように。一人ひとりが、一人ひとりに声を掛けるところから奇跡は始まります。人ひとりの命が救われる、それは大いなる神の御業「奇跡」です。
彼は言いました。「預言者は誰について 言っているのですか?」聖書は、イエス・キリストについて語っておられます。福音の主、イエス・キリストを言葉をもって、この手、この足、この体をもって、生活の中で語っていきましょう。
お祈りいたします。