見て信じるか、聞いて信じるか

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書55章8-11節
ヨハネによる福音書4章43-54節
2023年7月2日

Ⅰ. ガリラヤにて

今日はヨハネ福音書4章43節からの箇所で、サマリアの人々に歓迎され、2日間の滞在を延長した主イエスとその一行がガリラヤに戻って来ました。その間、祭りがあったのでエルサレムに上京され、水をぶどう酒に変える奇跡をなさったカナに再びやってこられた。その時の出来事です。

Ⅱ. あらすじ

最初にあらすじをもう一度確認したいと思います。ここに「一人の王の役人」が出てきます。彼の「息子」が「死にかかっていた」というのです。緊急を要する事態です。王の役人は、日頃から主イエスの噂を耳にしていたのかもしれません。〈イエスさまがカナにいらっしゃる。そのお方だったら息子をどうにかしてくれるに違いない〉、そうした信頼をもとに、カファルナウムからカナにやってきて懇願しました。
そうしますと主イエスはお答えになりました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。いかがでしょう?主イエスのこの言葉は、役人の耳に届いたのでしょうか。主イエスのその言葉を遮るかのように、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と懇願したのです。
すると主イエスはおっしゃいました。「帰りなさい」と言われた。ただそこには続きがあります。「あなたの息子は生きている」という約束です。これを聞いた役人は「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」と福音書記者ヨハネは伝えています。そして帰る途中、役人の家の僕たちが報告にやって来た。「お坊ちゃまが良くなられた。生きておられます!」と伝えた。時刻を確かめると、ちょうど主イエスが「あなたの息子は生きている」と語られた、その「同じ時刻」だったのです。

Ⅲ. 神のことばが持つ力

この出来事を前に、私たちは何を教えられるでしょうか。それは「神の言葉が持つ力」です。今日の朗読箇所、イザヤ書55章10節と11節に次のように書かれています。
「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく/必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ/種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も/空しく私のもとに戻ることはない。/必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる。」
神さまが降らせる雨や雪は、空しく神さまご自身の許に戻ることはない、というのです。必ず神さまが雨や雪に託された願いを実現して、ご自身の許に戻って来る。ところが、私たちの側の受け取り方次第で、神の言葉が神の言葉にならないことがある。力を持つはずの神の言葉が、その力を発揮できないことが起こり得る。どういう時でしょうか?
そのヒントが今日の箇所、50節にあるように思います。「帰りなさい。あなたの息子は生きている」と言われた役人は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」のです。つまり主イエスを信じるということは、そのお方が語った言葉を信じることだからです。
この事の関連で、福音書を書いた使徒ヨハネは、意味深長な言葉を残しています。
「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身は、『預言者は、自分の故郷では敬われないものだ』と証言されたことがある。」(43、44節)
この主イエスの発言を読む時、一つの出来事が心に浮かぶのではないでしょうか。
宣教を始められた時、主イエスはお育ちになった故郷ナザレに里帰りされました。その日はちょうど安息日でしたので、会堂に入られ、そこで聖書から説教をなさった時のことです。説教を聞いたナザレの人々は驚きました。小さい頃からよく知っている「イエス」が、こんな立派な教えを語るようになったことを驚いたのです。自分たちが知っているイエスと、今、目の前に立っているイエスが、余りにもかけ離れた存在であることに驚いた。福音書は、その時の彼らの言葉を伝えています。
「この人は、このような知恵と力をどこから得たのだろうか。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちも皆、私たちのところにいるではないか。この人はこれらすべてのことを、一体どこから得たのだろうか。」(マタイ13:54-56)
ナザレの人たちが自分たちの理解の範囲内に、イエスさまを押し込めようとした。その結果、「こうして、人々はイエスにつまずいた」と福音書は私たちに伝えています。同じ出来事を記したマルコ福音書を読みますと、そのように躓いた彼らの様子に対する主イエスの反応が出て来るのですが、主イエスは、そうした「人々の不信仰に驚かれた」というのです。
ところで、「人々の不信仰に驚かれた」と聖書に出て来る「不信仰」という言葉は、「信仰がない」と書きますが、ナザレの人々に信仰がなかったわけではありません。彼らに信仰があったので、安息日に礼拝するために会堂に集っていたのです。つまり聖書が教える「不信仰」とは、「そんなこと、あり得ない」と言って、自分の常識や経験で神の言葉を割り引いてしまう信仰の姿勢を「不信仰」と呼ぶのです。
「そんなこと、あり得ない」と頑なに考えているわけですから、そのお方が言われる言葉も真剣に聞かないでしょう。その結果、「あなたが信じたとおりになるように」と主イエスが言われるように、その人の信仰、つまり「そんなこと、あり得ない」という信仰の通りの結果が残るだけなのです。

Ⅳ. 見ずに信じる信仰

そしてもう一つ、注目したいのは48節の主イエスの言葉です。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」
普通は、信じるに足る根拠がなければ信じることは難しい。理由があるから信じます。ヨハネ福音書を最後まで読んでいきますと、復活の主イエスがご自身を現わされた時に、そこに居なかったトマスと主イエスのやり取りが出て来ます。「私たちは主を見た」と喜び語る仲間の弟子たちに対してトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」(20:25)と語りました。その一週間後の日曜日に、主が再び現れ、トマスに対して、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(20:29)とおっしゃったのです。
先週「言われたとおりにすると」というタイトルで「日々のみことば」を送らせていただきました。ある日、主イエスが会堂におられると、そこに右手の萎えた人がいました。主イエスは彼に向かい、「伸ばしなさい」と言われた。聖書は「そのとおりにすると、手は元どおりになった」(ルカ6:10)と書かれています。
考えてみれば、彼の手は完全に萎えていたので、伸ばすことは出来なかったはずです。でもイエスさまの言われたように、伸びない手を伸ばすと治った。原因と結果が逆転しています。実は、ここにイエスさまが教える「信仰」があります。彼にとって手を伸ばすことは恐ろしいことだったと思います。でもイエスさまは毅然とした態度で「手を伸ばしなさい」とお命じになるのです。
王の役人もそうだったでしょう。しるしも何もいただけない。心細かった、大丈夫だろうかと思ったに違いない。でも考えてみれば、「帰りなさい。あなたの息子は生きている」(4:50)という彼だけに語られた明確な神の約束の御言葉が与えられているのです。
私たちは、それをお語りくださった主イエスを信じているが故に、現時点で結果は見えなかったとしても、そのお方が下さった御言葉を信じて、手を伸ばし、家に帰り、次の信仰の一歩を歩み出すことが出来ます。  
お祈りします。