渇きを癒す神
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書2章2-5節
ヨハネによる福音書4章10-26節
2023年5月7日
Ⅰ. はじめに
教会では、先週まで「春の歓迎礼拝」でした。新しい方たち、また日ごろ祈りに覚えています、家族や友人をお誘いして礼拝を守って来ましたが、皆さまの中には、歓迎礼拝以来、続けて礼拝に出席しておられる方もあるかもしれません。ぜひ、続けてご出席いただけたら幸いです。今日は再びヨハネ福音書に戻ってまいりました。主イエスがサマリアで、一人の女性と出会った物語です。
Ⅱ. 意表を突かれるお方との出会い
主イエスは孤独を経験している、一人のサマリア人の女性と出会っておられます。それも主イエスの方から、彼女に、「水を飲ませてください」とお願いしたところから、この出会いが始まりました。
ただこの出会いは、心地良い出会いというか、むしろ不思議な、彼女からしたら戸惑いをもたらす出会い。意表を突くような出来事でした。なぜなら「ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかったから」です。ですから彼女は、主イエスのこうした姿勢に驚き「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と問い返しました。その彼女に主イエスは、次のように語りました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
さて、彼女はこの言葉を理解できなかったようです。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。」とさらに尋ねています。ただ、ここで興味深いことが起こっています。それまで彼女は主イエスに「あなた」と呼びかけていたのに対し「主よ」と呼びかけ方を変えている。主は、彼女の心の中に生じた小さな変化を見逃しません。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」とお語りになったのです。
この主の語りかけに女性の方も応答します。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」。ただ、改めてこの言葉を見ますと、主イエスの言わんとしていることを誤解していることが分かります。心の渇きを癒す内面的な「心の糧としての水」を提供するとの投げかけに対し、喉の渇きを癒す「物質としての水」に固執していたからです。そこで主イエスはどうしたかと言えば、突然、「夫の話」を持ち出されたのです。
Ⅲ. 「心の渇き」に触れられた主イエス
以前、何人かの男子高校生と洗礼準備会で学んだことがありました。ちょうど、今日の聖書個所を一緒に読みながら、「この女性、どんな人だったと思う?」と訊いたのです。すると一人の高校生が、「この人は綺麗な人だったのではないでしょうか」と答えてくれました。理由を訊くと、「五回も結婚できたから」と答えたのです。確かにそう言うこともあったかもしれません。皆さんは、どう思われるでしょう。
私は、「五人の夫がいた」という事実に、彼女の魂の渇き/心の渇きを感じます。
前回もお話ししました。当時、離婚は夫から一方的に言い渡されるものでした。ある人と結婚しました。結婚生活を始めます。ところが、いつの間にか嫌われ離婚させられてしまいます。しばらくして別の男性と出会い一緒になります。ところが、結果は前と同じ。それを五回も繰り返したのが、この女性です。そして現在、六人目の男性と同棲している。〈同じことが起こったらどうしよう〉と不安を抱えながらの生活だったと思います。
ある説教者は、この時の彼女は、主イエスによって、一番聞かれたくない、一番触れられたくない部分に触れられてしまったのではないか、と語っていました。
いかがでしょう?改めて私たちは、主イエスは私たちの課題、場合によっては触れて欲しくないところ、傷や痛みのそこに御手を触れるお方であることを知らされるのではないでしょうか。
考えてみますと、主イエスが重い皮膚病を患っている人を癒される時も、盲目の人の目を開かれる時も、そこに触れておられるからです。そして主が触れる時、それが手をもってか、あるいは言葉をもってかを問わず、それは相手を窮地に立たせるためではなく、このサマリアの女に当てはめて言えば、彼女の弱みに付け込み、彼女を困らせるために、意地悪な質問をしたのではないのです。まして単なる興味本位でお尋ねになったのでもありません。そうではなくて、その心の傷を、彼女の心の渇きを癒すために、言葉をもって触れてくださったのです。まず彼女自身が自分の心の渇き、魂が本当の渇いていることに気づいて欲しかった。気づかなければ、求めることもできませんから。だから、確かに聴かれて欲しくなかったことでしたが、主は、そこに触れてくださったのです。
ところで、聖書は私たちのことを「土の器」と呼んでいます。そして私たちは、その器の大小を問題にします。しかし、ある人が語っていましたが、本当に大事な点は、「どうしたら自分の器を大きくしていくか」以上に、「どのようにして水を補充するか」という、補給する仕方を知っていること。私たち高座教会で共に共有しているイメージを用いるならば、ぶどうの木であるキリストに繋がり続けているか、でしょう。
クリスチャンとして生きるとは、その命の泉に繋がって生きること。ぶどうの木であるキリストに繋がっていれば、枝の大小、器の大小は大きな問題ではありません。たとえ、か細く弱々しい枝でも繋がっていれば大丈夫。私たちが繋がり始めたお方は、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」こうおっしゃる。疲れを癒し、渇きを癒してくださるお方だからです。
Ⅳ. 一人ひとりを探し求める主イエス
最後に一つのことだけお話して終わりにしたいと思います。4節を見ていただきたいのです。不思議な言葉が出て来ます。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」。「~しなければならない」という助動詞が使われています。なぜ危険を冒してまでサマリアを通らなくてはならなかったのか。そう考えながら読み直す時、唯一理由として考えられるのは、心がカラカラに渇いていたこの女性と出会うためでした。
ある時、主イエスは、徴税人や罪人たちを相手に神の国の福音を説いておられました。お話が終わると、みんなで食卓を囲んでいました。そうしますと、その光景を見たファリサイ派の人や律法学者が、嫌な顔をしながら、こう言ったのです。
「この人は罪人たちを呼んで一緒に食事をしている。どうしてこんなことをするのか!」主イエスを非難したのです。
その言葉を聞いた主は、顔を曇らせたに違いない。悲しい顔をされたと思います。神に選ばれた、神の民イスラエルの指導者でありながら、神の御心が全く分かっていなかったからです。そこで主は、何をなさったかと言いますと、彼ら相手に、「見失った羊の譬え」をお語りになったのです(ルカ15:4-6)。
群れからはぐれてしまった一匹の羊。羊は迷子になり、本当に心細かったと思います。狼のことを考え始めたら、不安や恐れで心の中が一杯になったに違いない。声を出し、足を使って、一生懸命羊飼いを捜すのですが、見つかりません。もう本当に疲れ切ってしまっていた。そのような時、遠くの方から羊飼いの声が聞こえてきたのです。そして発見され、羊飼いの肩に背負われた時には、泣きたくなるほど嬉しかったことでしょう。
では、羊飼いの方はどうだったのでしょう!?彼は本当に心配して探しました。狼に襲われていたらどうしょう。崖から落ちてしまったらどうしよう。そうやって、ずっと心配しながら探し続けた。ですから発見した時は、ほっとしたと共に、本当にうれしかった。たぶん見つけた時は、羊以上に羊飼いの方がもっと嬉しかったのではないかと思います。
福音書記者ヨハネが、「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記す時、私たちの主イエスさまが、心がカラカラに渇き、これからどう生きていってよいか分からないで居た彼女と出会うために、ユダヤ人に敵意をいだいているサマリアという危険地帯に足を踏み入れて行かれた、という意味でしょう。それは他でもない、迷える羊を救済するためでした。彼女とのやり取りを通して、ご自身を信じる者へと導かれた時、彼女の喜びもさることながら、それ以上に、主イエスの心は見出した喜びで満たされたに違いありません。そして、私たちも、主から探されている一人ひとりなのです。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」と語られる、私たちの主イエス・キリストというお方は、危険を冒してこの女性を探しておられる羊飼いなるお方、その羊飼いなるお方は、私たちを生かすために、ご自身の命を犠牲になさるほど、私たちを大切な者として愛されるお方なのです。
お祈りします。
