主は与え、主は奪う

内田弥生神学生 奨励要約
2025年7月13日
ヨブ記1章6-22節
ローマの信徒への手紙8章18‐25節

Ⅰ. 理不尽な苦難と神への問い ― ヨブ記の核心

ヨブ記のテーマは「苦難」です。ロマ書8章22節に「被造物全て今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」とあります。
苦痛は動物にも感じられるが、万物の霊長と呼ばれる人間において、最も深刻に経験するものです。肉体的苦痛よりも、精神的苦痛は人間にとって、さらに圧倒的であるからです。悪人のみが苦難にあうのであれば、あるいはそれは、神の正義の応報であるとも考えられますが、罪なき義人が悩んでいる。正義の神とするなら、この苦痛を神が与えるはずがない。まさにヨブにとっては、理由が思い当たらない、理不尽な苦難であり、この世の創造主である神が、こともあろうに、天上でサタンとヨブを巡ってかけをするという物語になっています。
ヨブ記6節、「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。」
7節「主はサタンに言われた。『お前はどこから来た』『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩き回っていました』」この会話は、天上で行われたものです。旧約の先生は、まるで喫茶店でコーヒーでも飲みながら、会話をしているようだ。と言われました。この神の使いのものたちの中にサタンがいました。
主はサタンに言います。8節「お前はわたしの僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」神のお墨付きをもらっているヨブは、果たしてどのような人物なのか。1章1節でも同じ言葉でヨブを紹介しています。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」ここで言う畏れは、ヘブライ語では恐怖の「恐れる」が本来の意味です、他にも信仰する、信じて服従すると言う意味もあります。
そこで9‐11節、サタンは、ヨブが神から豊かな財産を与えられ、その見返りに神を信仰しているに過ぎない者。利益を与えられているからであればこそで、理由もなく神を信仰するはずがない。その富をことごとく奪い去ったなら、信仰深いと言われているヨブも神を呪うに違いない。というのでした。
神の会議を退出したサタンは真っ直ぐにヨブの子どもたちの元へ急ぎます。「あなたを呪うに違いない」この言葉を現実のものとするために、サタンは地上へ向かったのです。(13‐19節)
一度に全てを失うという苦難にあったのです。何という苦しみであったことでしょう。ヨブの受けた苦難は計り知れません。神を敬い、正しく生活していたヨブにとって、「どうして、なぜ」と心に嵐が吹き荒れたに違いありません。
20、21節「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪を剃り落とし、地に平伏して言った。『わたしは裸で母の胎をでた。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ。』」
まさに、衣を裂き、髪を剃り落とし、地に平伏す。これは嘆きの姿であり、「地にひれ伏す」とは沈黙と服従の姿であると並木浩一氏は解説しています。
このような時でさえ、ヨブは神への服従の行為で神への忠信を表わすのです。それは私たちならそうなるかもしれない、力なくへたりこんで、地に伏すというのではないのです。あくまでも神に服従するという意思の表れであるのです。義人と呼ばれているヨブ、普通の者ではこうはいきません。泣き叫び、狂ったように、のたうち回っても不思議ではありません。わたしならそうするでしょう。しかし、ヨブは違いました。

Ⅱ. 苦難における人間の姿と信仰-私自身の体験から

このような、全てを失うような天からの災いをわたしたちも経験します。東日本大震災でもたくさんの命が失われ、家が流されました。まさに私たちの経験したことでもあります。
昨年の夏は、私は東北のいわき市と猪苗代湖に10日間研修に行ってまいりました。
東北へ足を踏みいれることは、私にとっても初めてのことでした。大震災の後、私はテレビで、孫をその母親と一緒に探すドキュメントを見ました。その母親は、「ここに家があったのです。」と言いながら、石塀のあたりの石を一つ一つめくりながら子どもを探す姿が映し出されたのです。本当に悲惨だと思いました。このような突然の津波によって、最愛の者が失われるという苦難。ものすごいショックを受けました。そのことを神学校のカウンセリングの研修のあった時に先生にお話すると、「ハタから見たら、ショックなことですが、それは喪の作業といって、本人たちには必要な作業なのです。」という説明をされました。最愛の子供が失われたということを確認するため、自分を納得させるための一つ一つの作業だというのです。悲しいと思いました。
そして、まさに聖書の中でのヨブが、私たちが経験する、全ての人が味わう体験を代弁するということだと思いました。人間の理性では、計り知れない試練であり苦難です。

Ⅲ. 献身と、神が望まれる人間の姿

しかし、苦難を受けたヨブが悲嘆(ひたん)に暮れながらも揺るぎない確信を持って次の言葉を口にするのです。
21節「わたしは裸で母の胎をでた。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ。」22節「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」と聖書にはあります。ヨブの21節のこの言葉は神の意志を受け入れればこそ言える言葉です。ことここに及んでも、ヨブの信仰が失われることもなかったし、ましてや神を呪うこともなかったのです。そして今回の先の2章10節「私たちは、神から幸福を頂いたのだから、不幸もいただこうではないか。」という、ヨブの言葉につながっています。
ヨブの妻が、2章9節「どこまで無垢でいるのですか、神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言った言葉に対してのヨブの応答です。これは単なる言葉ではなく、決意の言葉であり、ヨブ記における最も深い信仰を表した言葉と言えます。しかし、妻も自分の腹を痛めた子どもたちを失ったのですから、苦痛を覚えないはずはありません。しかし、ヨブは最初の報告を聞いた時にすでに「主は与え、主は奪う」と言います。ここでいう主は、契約の神、創造主の神、恵みの中に自分を神の僕として立たせてくださった。その神が、この災いを自分にお与えになったと告白しているのです。
ヨブは、その信仰によって、ただ神への信頼だけを心の頼りにして「主は与え、主は奪う」ものだと自分に言い聞かせるのです。そうしなければヨブは生きて行くことができなかったのかもしれません。

Ⅳ. 苦難の中で信じるということ

私たちの思いを遥かに超えたところで働かれる神様の導き、神を受け入れることでヨブはまだ息ができたのかもしれません。ただただ神にひれ伏すヨブの姿から私たちは何を受け取ることができるでしょうか。本当にその通りだ。とはなかなか言えません。悲惨で、悔しさを通り越して、「どうして私だけ」、と嘆きだけが心を襲うのではないでしょうか。
しかし、いっとき、この長くて短い人生を、神様に捧げるためだけに生きている。
全てを捧げたこの私たちに与えられた時間の中で起こることは、神様に委ねた時間なのだと思うことができるなら、「主は与え、主は奪う」と神の前に告白できるのかもしれません。
私は、「この身をお捧げしますから、どうぞ、私の罪が子どもたちに及ばず、災いが起きませんように守ってください。」とずっと祈ってきました。この祈りは間違った祈りかもしれません。しかし、そして,
そう祈り続けたことが、今の私につながっています。私は今神学校に通うことになり、牧師を目指しています。まだ、この先どうなるかはわかりませんが、こうして私の生き方が大きく舵を切ることになったのは、教会との出会いであり、聖書との出会いであり、私を洗礼に導き、神学校へと押し出してくださった人々との出会いなのです。
神様にこの身をお捧げするという決意が、まさにこのヨブの「主は与え、主は奪う」という神様への告白の言葉が、私を支え、私を導くのだと信じることができるのだと思ったからではないかと、本日お話をしていて思わされるのです。
牧師になるには、献身が必要である。と言われます。献身なしに牧師を務められません。この身を捧げる。全てを主に委ねて生きる。ということだとヨブ記を読んで、改めて思わされました。それぞれの受け取り方があるかもしれません。しかし、今は神を第一に中心において、信頼し、何事をも神のみ心であると受け止めて、祈り求めて生きていきたいと思うのです。この物語は、このヨブがどうなったかということが、ヨブのたどった人生が描かれています。しかし、私たちは、今この時しか知りません。この先がどうなるかは知らずに生きているのです。もしも、私たちがこのヨブのような状況にあったとしたら、すべては神から与えられたのだから、奪われても仕方がないと、本当に思えるだろうかという思いに、ここまでお話しして思ってしまいました。神が欲することとは、神の意志とは。聖書の最初のページから最後のページに至るまで、あらゆる次元における人間の幸福を目指しているのではないでしょうか。それは決定的であらゆる面に渡る幸福、聖書的に言えば、個人および全人間の「救い」であるのです。
鈴木牧師は、あさひ教会で、福祉事業を立ち上げる時に、次のように文書を書いておられます。「人のために用意された場である。そこで人が生き、讃美を捧げ、祈り、み言葉を受け、献身を捧げ、送り出される人のための場である。つまり、神に仕える場は同時に、人を活かし人に仕える場でもなければならない。」まさにその場であります。礼拝を捧げているこの場、介護事業として、日々を幸せに生きるためにこの場(あさひ教会)に集められた高齢者の方々、そしてそれに仕えるために集められたスタッフの方々。この場に集結しているのです。高齢者社会において、お一人お一人の助けの聞こえぬ声を聞き、駆けつけ、日々をより良く生きるためのケアを実践する。無条件で愛すること。それは神に仕えることに他ならないのです。
この聖書のみ言葉は私自身に与えられた必要な言葉だったのだと思うのです。そして、きっと皆様にも与えられた、み言葉でもあるのです。これからの私たちの人生が、神により与えられたものであり、どのようなことが起こっても、祝福された命なのだということを心から祈り求めていきたいと思います。神は与え、そして奪うもの。しかし、私たちはこの今を限りなく神を求めて、救いのうちに幸せに過ごしていく。それが神様が私たちに求めておられることなのです。
祈ります。