今こそ悔い改めるべき時

和田一郎牧師 説教要約
2025年7月6日
イザヤ書40章1-5節
マルコによる福音書1章1-11節

Ⅰ.「福音」の初め

イースターとペンテコステを通して、イエス・キリストの受難と復活、復活されたイエス・キリストが弟子たちに示してくださった出来事、そしてペンテコステで聖霊を受けた使徒たち、主に使徒パウロが宣教の働きを広げていった出来事を5月・6月の説教をとおして分かち合ってきました。7月からマルコによる福音書を読み進めていきたいと思います。マルコ福音書を書いた著者は、マルコはパウロとバルナバの宣教旅行に同行した使徒言行録に出てくる人で、晩年のパウロのそばにいたですし、使徒ペトロとも関係の深い人だとされているので、このマルコによる福音書はペトロから聞き取って書いたと言われています。マルコはこの福音書の初めに次の言葉から始めています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコ1:1)
「福音の初め」とマルコがまず語っています。「福音」という言葉です。この言葉はギリシャ語の「エバンゲリオン」を訳したものです。スマートフォンで検索するとアニメ作品が出てくるのですが、エバンゲリオンは「福音」と訳されていて、その意味は「良い知らせ」という意味です。もともとギリシャ語のエバンゲリオンは宗教用語ではなく、政治的な意味で使われる言葉で「新しい皇帝が誕生した」知らせ、とか「戦争に勝利した」という喜ばしい知らせ、良いニュースを現す言葉でした。そして、福音という言葉で重要なことは、誰にとって良い知らせなのか?ということです。良い知らせというのは「神様の祝福が届きましたよ」という良い知らせであり、それがユダヤ人の男性以外の人々、つまり旧約聖書の時代に、神様の祝福はユダヤ人だけ、男性だけ、安息日を守る余裕のある人だけ、女性や子どもや、貧しい人、病気の人、異国人の人は神様の祝福に与れないとされていた人々にも、イエス・キリストを主と信じることによって、イエス様の十字架の死と復活を信じることによって、「神様の祝福が届きますよ」という「良い知らせ」が福音です。
 そして、その「良い知らせ」の物語が始まります。1節「神の子イエス・キリストの福音の初め。」マルコはそのように福音を語り始めました。彼は福音のはじめは、洗礼者ヨハネから始まると語り始めたのです。

Ⅱ.悔い改めること

洗礼者ヨハネは荒れ野に現れ、洗礼を授け始めました。2.3節には、旧約聖書の預言の言葉を引用しています。ヨハネは救い主の前に遣わされ、その備えをする使者であり、主の道を整え、その道筋をまっすぐにする「荒れ野で叫ぶ者の声」であることが語られています。「預言者イザヤの書にこう書いてある」とあります。今日朗読したイザヤ書第40章からの引用ですが、洗礼者ヨハネの存在は旧約聖書に預言されていたことであり、神の子イエス・キリストを遣わして「福音」を実現して下さる神様のご計画の一部なのだとマルコは語っているのです。
4節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」ヨハネは、洗礼を「授けた」のではなくて「宣べ伝えた」というのです。洗礼を授けるという儀式だけを行ったのではなくて、ヨハネが「宣べ伝えた」ことがあったということです。それは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。ヨハネは人々に、悔い改めることによってこそ罪の赦しが得られるとを語り、悔い改めを迫ったのです。彼が授けた洗礼は、悔い改めて罪の赦しを得ることの印(しるし)だったのです。
それは、多くのユダヤ人たちの心に響きました。5節「ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。」とあります。多くのユダヤ人が、ヨハネの呼びかけに心を動かされて、彼のもとにやって来て洗礼を受けたのです。
「洗礼」とはギリシャ語で「浸す」「沈める」を意味する言葉です。ヨルダン川という川に入って全身を水に浸かって全身を清めるというという儀式が洗礼とされました。これはヨハネが考えて始めたのではなくて、以前からあったものです。しかし以前からあった洗礼とは異邦人のために施す儀式でした。ユダヤ人以外の異邦人が、改宗して主なる神様を信じる者となり、イスラエルの民の一員になるための儀式でした。異邦人つまり異教徒は、洗礼を受けてイスラエルの民に加えられることによって、初めて救いにあずかることができると考えられていたのです。しかし洗礼者ヨハネは、異邦人ではなくユダヤ人たちに向かって「悔い改めなさい、洗礼を受けなさい」と言ったのです。ユダヤ人も異邦人と同じ罪人だからです。異邦人が悔い改めて洗礼を受けることによって罪を赦されて救いにあずかるように、あなたがたユダヤ人も、悔い改めて罪の赦しを与えられなければ救いにあずかることができないと。このヨハネの言葉は反発を受け、無視され、誰も耳を傾けなかったのではなくて、多くの人々がそれを受け入れ、彼のもとに来て罪を告白したのです。これは、悔い改めを迫る言葉が、人々の心に触れたことを現しています。ユダヤ人たちは、「我々は神に選ばれた民なのだ、異邦人とは違うのだ」という自負をもって生きていました。しかし表面的には誇り高く生きていましたが、心の奥深くには、満たされない思いがあったのです。恐れや不安があったのです。その心にヨハネの言葉が響いたのです。彼らの不安の真相は「罪」にあるのだということです。表面的には強がっていても、誇っていても、異邦人を見下していても、あなたには悔い改めるべき「罪」はないだろうか?という問いかけが、響いたのです。この「罪」というのは犯罪を犯しているとか、律法を守っていない、というような表面的なことではなくて、神様との関係が正しくないという「罪」です。
 悔い改めるとは、後悔するとか、反省しなさいという事ではありません。罪を認めることであり、神様に立ち返ることです。神様に従うと心に決めて、行動を改めることです。その最初にくるのが、まず罪を認めることから始まるわけです。
それを、キリスト教会では、「回心」とか「改心」という漢字を使ったりしますが、どんな字を使うにしても、当時の人たちは「今の生き方でいいのだろうか?」と心を揺さぶられたのです。
悔い改めるとは「神様に立ち返ること」と言いましたが、つまり、向きを変えることです。そもそも、私たち人間は、生まれつきの神様に背を向けているのです。神様に背を向けたままで、どうすれば正しく生きられるのだろう。どうすれば人間関係が改善されるのだろうと、悩みが尽きなくて常に心配しています。心配したり、先行きに不安を感じたりすることは危険を回避するために必要な防御反応でもあるので、人間の性質としては、どうしても悩みや心配は尽きないのです。そのために努力し、頑張っているのです。しかし基本的に神様に背を向けているので、いくら頑張っていても空回りなのです。頑張れば頑張るほど自分の至らなさや、自分の罪があらわになっていくのです。どんなに反省しても改善をはかっても、根本的な解決にならないのです。神様との関係において私たちに必要なのは反省ではなくて、神様に背を向けていた、その向きを変えることです。
そして、何よりも神様の御心が、私たちをただ肯定して、そのままでよい、ありのままでよい、というものではありません。確かに私たちの存在そのものは、そのままで良い、罪をもったままでも愛して下さいます。しかし、神様は私たちに、悔い改めを求めておられるのです。背を向けていないで、私の方に向きを変えなさいと呼びかけてくださっているのです。神様からの呼びかけを、しっかり受け止めて自分の罪を認め、告白して、神様に向き合って生きていく人を、神様は喜んで受け入れてくださいます。

Ⅲ.キリストの洗礼と洗礼者ヨハネの洗礼

ヨハネは、自分の役割をしっかりと自覚していました。今、自分が授けている洗礼が、来るべき救い主イエス・キリストのために道を準備し、整えるものであることです。
7節「彼はこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」
洗礼者ヨハネの洗礼は水での洗礼ですが、イエス様は聖霊で洗礼をお授けになる。ヨハネの洗礼はその救い主の洗礼のための備えであって、イエス様の聖霊による洗礼にとって替わられていくべきものなのです。そしてその来るべき方として、イエス様がガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのです。イエス様が洗礼を受けると、天が裂けて、「霊」が鳩のように降りました。
そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の声がしたのです。「私の心に敵う者」というのは、英語で” I am well pleased.” でした。「私はあなたを喜ぶ」とも訳すことができる言葉です。
聖霊が、イエス様に注がれて、父なる神様の「私はあなたを喜ぶ」という言葉によって「聖霊で洗礼をお授けになる」方が、このイエス・キリストであることが示されたのです。
イエス様が授ける聖霊による洗礼と、ヨハネが授けた水による洗礼とは、どう違うのでしょう。どちらも、悔い改めること、神様の方に向き変わり、神に立ち帰るということは同じです。イエス様の聖霊による洗礼もヨハネの洗礼と同じく「罪の赦しを与えるための悔い改めの洗礼」です。その基本に違いはありませんが、
イエス様の洗礼は、イエス様の十字架の死と復活によって実現した神様の救いの恵みの中に置かれています。私たちの罪のために十字架で死んで下さったことによって実現して下さった罪の赦しにあずかり、イエス様の復活にあずかる新しい命が与えられるのです。イエス様の十字架の犠牲による罪の赦しと、復活の永遠の命は、洗礼者ヨハネの水による洗礼とは違うのです。洗礼者ヨハネの「悔い改めの洗礼」はイエス様が来られる前に、自分の罪に目を向けるためになされましたが、聖霊の働きによるイエス様の洗礼を受けることで、罪に支配された古い自分が葬られ、イエス様の復活に与る、新しい永遠の命を生きる者とされることで、私たちは、自分の力では成し得ない本当の方向転換をして、神様の方に向き変えて、神様と向き合って正しい関係に入れられるのです。

Ⅳ.聖餐の時

その、イエス様の聖霊による洗礼を受けた者たちは、聖霊によって建てられた教会に加えられた者として、聖餐に与ることができます。聖餐のパンと杯を与ることを通して、イエス様の復活の命にあずかって新しい命を生きている、永遠の命への希望を新たにすることができるのです。お祈りをいたします。