イエスの母ときょうだい
和田一郎牧師 説教要約
2026年3月1日
創世記12章1―4節
マルコによる福音書3章31―35節
Ⅰ. 家族の到来
先週の箇所では「家」がキーワードでした。家とは家族のいる場所です。そして今日の箇所では、その「家族」がテーマになります。宣教をしているイエス様のもとに、イエス様の母と、兄弟たちが登場します。イエス様は母マリアの最初の子として生まれた長男で、その後に弟や妹たちが生まれました。マリアの夫ヨセフは早くに亡くなったと伝えられているので、このときの家族は母マリアと弟妹たちだったと考えられます。
先週話した21節には「身内の人たち」が来たと書かれていました。この人たちが31節「母と兄弟たち」と書かれているように、改めて登場しているのです。家族たちは何をしに来たのでしょうか。21節によれば、イエス様を「取り押さえに来た」のです。というのも、「あの人は正気ではないらしい」という噂を聞いたからでした。そうした状況があって「イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」とあります。32節に「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」とある、その人たちの外にいるのです。その外に立って「人をやってイエスを呼ばせた」のです。
家族たちは中に入って来ません。なぜなら、家族たちは癒しと救いを求めて集まっている人々とは違って、イエス様を信じていなかったからです。中に入るよりも、むしろイエス様を止めに来たのです。ナザレの実家を出て、いつも群衆に囲まれ、安息日も構わず活動している。しかも宗教指導者と衝突しているらしい。家族にとってそれは危険なことに見えました。彼ら家族の行動は愛情から出たものでした。守らなければならない。その思いは決して間違ってはいません。むしろ当然です。しかしその愛情が、イエス・キリストという方を理解することを妨げていました。
Ⅱ. 外に立っている人と、周りに座っている人
イエス様の周りには人々が座っています。彼らは特別な人ではありません。病人、悩みを抱えた人、救いを求める人です。自分の問題としてイエス様を必要としている人々です。一方、家族は外からイエスを見て「この活動は危険だ」「やめるべきだ」と結論を出しているのです。つまり、信じる前に自分たちで判断しようとする姿があるのです。
私たちはここに、自分の姿を見出すのではないでしょうか。信じる前に批評する。自分の判断が先にたち、真理を見いだすことを妨げていないだろうか?神を外から理解しようとしたりする時、私たちもまた「外に立つ者」なのです。
この場面で、イエス様の近くに集まっていた「人々」は、単なる見物人ではありません。マルコ3章7–12を見ると、イエス様のもとにはガリラヤだけでなく、遠い地方からも大勢が集まって来ていました。つまり、地域も身分も背景もばらばらな人々です。病気の人、人生に行き詰まっている人、社会の中で弱い立場に置かれている人たちです。
彼らはただ、「癒されたい・・・救われたい」と願ってイエスのもとに来ていたのです。そして、よく読むとその人々は立っているのではなく座っています。教師の足もとに座る者は「弟子」です。イエス様の言葉を聞こうとしていた人々でした。ただイエス様の前に座り、必要を抱えたまま、イエスを求めていた人々です。
「神の御心を行う人」と言われると、私たちはすぐに「立派な行い」を思い浮かべます。しかしこの場面が示しているのは逆です。神の御心とは、神を求めること、神を必要とすることです。イエス様が宣言された新しい家族とは、能力や功績で結ばれる共同体ではありません。
助けを求めてイエスの前に座る者たちこそが、主イエスの家族なのです。
Ⅲ. 無縁社会の中で
現代はしばしば「無縁社会」と呼ばれます。かつて人と人とを結びつけていた三つの縁――血縁、地縁、社縁が弱くなりました。家族の関係は以前ほど密ではなくなり、近所付き合いは減り、終身雇用も崩れました。地域や職場が、人生を支える「共同体」であるとは言えなくなってきています。
それは決して、すべてが悪いということではありません。一人暮らしができる、転職できる、故郷を離れても生きていける。価値観の違いを理由に無理に同調しなくてもよい。自由が広がり、多様性が尊重される社会になりました。過去の社会が抱えていた、同調圧力や閉鎖性から解放された面も確かにあります。
しかし同時に、別の問題が生まれました。「一人でも生きられる社会」は、「一人で生きなければならない社会」になりやすいのです。貧困の問題があります。非正規雇用や不安定な収入の中で、病気や失業が重なると一気に孤立します。
人間関係はインターネットによって大きく変わりました。孤独の中にいる人にとって、ネット上のつながりが支えになることも少なくありません。しかし同時に簡単に切れてしまいます。相手の痛みを背負わなくても済むのです。「いいね」や短い言葉は交わされても、生活までは共有されません。「人それぞれだよね」という言葉もよく耳にします。一見やさしい言葉ですし価値観の違いを認める大切さを含んでいます。しかし、それと同時に「私は踏み込みません」「あなたの問題には関わりません」という距離が潜んでいるようにも思います。
Ⅳ. 神の家族という新しい関係
イエス様は、周りに座っていた人々を指して「ここに私の母、私のきょうだいがいる」と語られました。この言葉は、新しい関係があると宣言しているのです。血縁でもなく、利害関係でもなく、ただ「神を必要とする」という一点で結ばれる関係。そのとき人は、「孤独な個人」から「神の家族」へと迎え入れられます。
無縁社会において、人が本当に求めているのは、評価でも役割でもありません。「ここにいてよい」と受け入れられる場所です。
教会とは、その場所になり得るのです。教会の使命とは、外に立っている人を内側へ連れて来ることではありません。神の前に一緒に座り、喜びも寂しさも分かち合い、「あなたは一人ではない」と告げること。それこそが、イエス様が示された「神の家族」の姿です。
イエス様の周りに座っていた人々は、信仰の立派な人ではありませんでした。後に離れていった人もいたでしょう。十字架の時に逃げた弟子たちもいます。それでもイエス様は言われました。
「ここにわたしの家族がいる」と。これは招きの言葉です。神の家族として招く言葉です。外に立つ家族にも、内に座る群衆にも、同じように語られています。「ここにわたしの家族がいる」教会とは、正しい人の集まりではありません。疲れた人が帰って来られる家です。私たちは信仰が強いからここにいるのではなくて、必要だからここにいるのです。
イエス様は今日も言われます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」ここに、キリストの家族があります。ここに、あなたの居場所があります。
お祈りいたします。


