荒れ野から始まる新しい物語

宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福音書3章1~12節
2026年3月8日

Ⅰ.荒れ野へ

今朝の礼拝のために与えられている聖書の御言葉を思い巡らしながら一週間を過ごしてきました。その間私の頭を離れたなかったのは「荒れ野」ということです。
聖書にこのように書いてあります。「その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、言った。『悔い改めよ。天の国は近づいた。』」聖書によると、ヨハネという人がいた。この人は荒れ野にいた。荒れ野で、神さまからの御言葉を語っていた。なぜ荒れ野なのでしょうか?どうしてこの人は荒れ野にいるのでしょうか?気になります。
しかも、荒れ野にいるこの人のところへ大勢の人が来て、その言葉に耳を傾けています。たまたま荒れ野にヨハネという奇妙な人がいてなにがしかを言っている、ということではありません。どうして人々はわざわざ荒れ野にまでやって来たのでしょうか?不思議です。とても気になります。
ヨハネという人は奇妙な人物です。荒れ野にいるということ自体が普通ではありません。普通は町や村に住む者です。生活しやすいですから。荒れ野なんて、常識的に言って人が住むような場所ではない。この人の出で立ちも奇妙です。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べ物としていた」と聖書は報告している。2000年前とはいえ、普通の生活スタイルとは思えません。更に、ヨハネが語っているメッセージはかなり厳しいものです。「悔い改めよ」と言います。キリスト教は人を罪人扱いするから嫌だと皆さんも思ったことがあるかもしれないし、まわりの人に言われたりしたことがあるかもしれません。あるいは「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」という言葉もかなり強烈です。他人に向かって「毒蛇の子らよ」なんて、普通は言いません。しかも自分のところにわざわざ来てくれた人です。そんな人に神の怒りを突きつけることなんて、普通はしません。
それなのに、大勢の人がヨハネの言葉を聞きに、そしてヨハネから洗礼を受けるために、わざわざ荒れ野にまで来ているのです。どうしてなのでしょう。
ここのところそのことを思い巡らしながら過ごしてきて、「あ!」と思いました。荒れ野で洗礼者ヨハネが語る福音に耳を傾けている人たちは、実は、私たちと同じではないかということに気づいたのです。
第3章は、おおよそ紀元30年頃の話です。大きな時代の流れとしては、この頃は比較的安定した時代だったようです。こ地中海世界を支配していたのはローマという国でした。その支配は盤石でした。基本的に戦争は少なく、比較的食べていきやすい時代だったようです。毎日を安心して暮らすことができる。この時代は、私たちの生きている現代と案外似ているように思います。ですから私たちも想像しやすいところがあるように思いますが、人々の間に問が生まれてきたのではないか。私はこれでいいのだろうか、私はこのように生きていていいのだろうか、と。
「霊性」という言葉があります。私たちの信じること、祈ること、神を求めること、というような意味合いであると思います。日本のプロテスタント教会の第一世代の牧師の植村正久は「霊性の危機」という文章を書いています。植村牧師がこの本を書いた時代も、今と少し似たような雰囲気だったのかもしれません。植村牧師は、私たちの霊性が危機に瀕していると訴えます。霊性が病気になってしまっている。真の神を信じ求めることをせず、今の安心や安定を求めて生きているうちに、実は私たちの霊性は既に危機に瀕している。
荒れ野のヨハネのところに来た人々も、自分たちの霊性のある危機を感じてやって来たのではないかと私は思うのです。だからどうしても荒れ野へ出て行かなくてはならなかったのです。町で普通の生活をし、今の自分の毎日が安定することに必死になっても、どうにもならないものを抱えていたのではないでしょうか。ヨハネの言葉をどうしても聞かないわけにはいかなかったのではないでしょうか。

Ⅱ.「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

私たちも、今朝、荒れ野に出てきました。実は、ここは荒れ野です。神を礼拝するここは荒れ野なのです。荒れ野ですから、ここは生産や消費の場ではありません。コスパやタイパを改善して、合理的に物事を進める場でもありません。私たちはここで神さまの御前に進み出ます。そのために普段の生活を中断して、ここに出てきました。ここは荒れ野です。私たちは荒れ野で神の前に進み出ているのです。
6日の夜に目白にある日本聖書神学校へ行ってきました。卒業式でした。内田弥生神学生が卒業されたのです。内田神学生は来たる3月22日に伝道師に任職され、あさひ教会に派遣されます。神学校も、一つの荒れ野です。内田神学生は、神学校の門をくぐることで一つの死を経験されたのでしょう。それまでの自分に死んで、新しい人生が始まった。その日から神学生としての研修を積み、これまで何度も死を経験してきたに違いない。そして6日に、ついに神学生としての自分も死んだ。これは何も卒業式という一つの区切りを迎えたという話ではありません。神の前で古い自分が死ぬという、決定的な出来事の話です。
ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言っています。悔い改めるというのは、死ぬということです。古い自分が死ぬ。荒れ野で死ぬのです。神を求めて、私たちは今荒れ野に出てきました。ここで死ぬのです。「天の国は近づいた」からです。天の国がもうここまで来ているから、古い私にはもう終わりが訪れた。
「天の国」は、極楽浄土のキリスト教バージョンではありません。ここでは、死んだら行く場所の話をしているのではない。マタイは「天」という言葉で婉曲的に「神」を言いあらわします。従って「天の国」というのは、「神の国」という意味です。天の国が近づいた。神の国が近づいた。それは、神ご自身が私たちのところへ来ておられるということです。
その事実を言い直したのが11節です。「私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。」ヨハネはここで「私の後から来る人」と言っています。主イエスのことです。キリストが来られる。天の国そのものでいらっしゃるイエス・キリストが来られる。私たちのところに!私たちは神の前に引きずり出された。だから私たちは悔い改める。自分に死ぬ。古い自分は神の前でもう死んだ。「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」主イエスご自身が聖霊と火による洗礼をお授けになる。火というのは、焼き尽くす火のことです。裁きの火です。私たちを裁いて焼いてしまう。私たちは神の前で死ななければ、救われることはないからです。死んだ者だけが神さまの前に甦りの命を頂くからです。

Ⅲ.神があなたを新しくしてくださる

ヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言います。
「アブラハムの子」というのは「ユダヤ人」という意味です。神の約束に預かっている民の一員だ、というユダヤ人たちの自負を言いあらわした言葉なのだと思います。私たちにそのまま当て嵌めれば、「キリスト者」と言っても良いのかもしれません。ところが神はこんな石ころからでもアブラハムの子を造り出すことがおできになる、だから「我々の父はアブラハムだ」などとゆめゆめ口にするな、と言うのです。苦しくなるくらいに厳しい言葉です。
今日、私は「アブラハムの子」のことについても、それ以外でも、怖くて厳しいようなことばかり申し上げている。そのようにお感じの方もおられるのではないかと思います。聞いていて辛いとお思いになるかもしれません。
しかし、ここでこそ神さまを信じたいのです。私たち自身ではなく、神を信じたい。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子を造り出すことがおできになる。」荒れ野に落ちている石ころからでも、神にはアブラハムの子を造り出すことがおできになる。この神は、私たちのことを新しくすることがおできになるのです。私たちを新しく生まれさせることがおできになるのは、このお方なのです。
私たちが普段生きているのは町です。荒れ野ではありません。そこは無駄なく合理的に物事を進めることが重んじられます。町は欲望のスーパーマーケットであり、町に響く声は不安の幕の内弁当です。
だから、私たちは荒れ野へ出て行くことがとても大切なのではないでしょうか。神の前に進み出ることが私たちには欠かせないのではないでしょうか。キリストが来ておられる。この圧倒的な事実の前で悔い改めます。古い私は神の前に死んだ。キリストに殺していただかなくては、私たちは救われない。そして同時に、キリストにあって死んだ者を、神は救ってくださる。新しくなることができる。荒れ野から、私たちの新しい日々の物語が始まる。
キリストの下に立つならば、毎日であっても、新しくなることができます。私たちも、です。8節でキリストは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っておられます。神が私たちを裁き、赦し、愛し、育んでくださる。そのことに期待し、キリストが新しくしてくださることを受け入れる私でありたいのです。