あなたの『幸い』は誰が決めたの?

宮井岳彦副牧師

説教要約
マタイによる福⾳書 5章1~12節
2026年5⽉10⽇

Ⅰ.主イエスがご覧になるたくさんの⼈々

山に登る主イエス・キリスト。腰を下ろし、ご覧になると、目の前には4 人の弟子たちがいます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を始め、主が最初になさったのは弟子たちをお召しになるということでした。
4人の弟子たち。この人たちは、私たちに引き寄せて言うならばキリストの教会です。主は天の国の到来のしるしとして、教会を呼び集めたのです。
今朝の礼拝も「招きの言葉」から始まりました。キリストがここに始まった天の国の民として弟子たちをご自分の前に呼び集められたのです。私たちもキリストの目の前にいます。
しかし、山上に座る主イエスの視野に入っているのは弟子たち、教会だけではありません。「イエスはこの群衆を見て」と1 節に書いてあります。「この群衆」というのは誰のことか?4:23~25 に登場しています。この人たちは、あらゆる病気の人々でした。病んで苦しむ人。悪霊に取りつかれた人。発作に悩む人。体の麻痺した人。
そのようなあらゆる病人が主イエスのところへ来ていたのです。主イエスはこの人たちのことをご自分の力で癒やしてあげた。この人たちは、主イエスをあがめるためにここに来たわけではない。病気が辛くて治してほしかった。困難な問題に直面していたからどうにかしてほしかった。病気や痛み、辛さ、悲しみを抱えて、イエス様なら何とかしてくれるのではないかと期待してやって来た人々です。たぶん、私たちや私たちの周りにいるたくさんの人たちと似ているのです。主イエスはそんな群衆がたくさんやって来るのを見て、山に登って、この「山上の説教」をお語りになりました。

Ⅱ.「こんな無理難題、できやしない!」

「山上の説教」は新約聖書の中でも比較的有名な箇所です。ここで語られた言葉の全部と言わずとも一部であれば聞いたことがあるという人も、教会に行ったことがない人の中にも案外多いのではないかと思います。
「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉。あるいは、「情欲を抱いて女を見るものは誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」という言葉も、よく知られているのではないか、と思います。
皆さんはこのような聖書の言葉を耳にして、どう思われるでしょうか?私が想像するに「途方に暮れる」という方が多いのではないでしょうか。そんなことを言われても、私には無理だ、と。あるいは「あんまりにも非現実的だ」と思われる方も多いかも知れません。今の国際情勢を見たら、「敵を愛せ」などと悠長なことは言っていられないだろう、と腹立たしい思いになるかもしれませんし、偽善的だということになるかもしれない。
しかし、こういう主イエスの言葉を真剣に受けとめて従う人もいます。キリスト者ではありませんが、インドのマハトマ・ガンジーは「敵を愛せ」という主イエスの言葉に心を動かされ暴力によらない抵抗運動を貫いた、と聞いたことがあります。米国のキング牧師はそのガンジーの行いに感銘を受けて、やはり暴力によらずに黒人解放運動を行いました。そういう話を聞くと、一方では「凄い」と思いながら、他方では「自分とは違う、例外的な人の話だ」と思い込んでしまうこともあるかもしれません。果たして、本当にそうなのでしょうか?この「山上の説教」は、できもしない無理難題なのでしょうか?

Ⅲ.天の国が提⽰する「幸い」

「山上の説教」のスタートは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音宣言です。
主イエスはここで、ご自分が宣言した天の国の民(天国人)というのは一体何者なのか、という話をしておられるのだと思います。
「天の国」というと天国、死後の世界、極楽浄土のキリスト教版、という語感があります。しかし、恐らくそういう意味ではありません。死んだ後の話ではない。「天の国は近づいた」とイエス・キリストが宣言する今、ここで天の国はもう始まっている。主イエスの目の前には弟子たちがいます。そしてその後ろにはたくさんの病人、痛んでいる人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、絶望している人がいます。主イエスは、今まさに、ここに天の国が来ている、と宣言なさなったのです。
その天の国の宣言から始まる主イエスの説教が「幸い」から始まっているというのはとっても興味深いことだと思います。何を自分の「幸い」と考えて生きるのかというところに人生の価値観が表れるからです。
わが家で子どもが見ているYouTube の動画を見ていると、何を「幸せ」と考えて発信しているのかがよく分かります。流行のものを手に入れるとか、お金持ちになるとか、そういうこともあります。しかし、もっと強く発信されている「幸せ」は、ちょっと別のものではないかと私は思います。「今、こうやってあなたの好きな動画を見て楽しんでいる、この瞬間があなたの『幸せ』でしょう」というメッセージが繰り返されているのではないか、と私は思うのです。そして動画のプラットフォームは、繰り返しあなたの好きな動画はこれでしょう、次に見るべきなのはこれですよとオススメを提示します。いつまでも終わらない。こうやって動画を楽しむことで普段の憂さから逃れられられて幸せでしょう、と語りかけられているような気がします。絶えず脳を刺激し、刹那的で、短絡な幸せが提供されている。
しかしこれは子どもだけの問題ではありません。私たち大人が作った社会で子どもたちは生きています。私たちをモデルにしてあの子たちは生きています。私たちが豊かになることを追求し、他人を抑圧していることに目をつぶっている間に私たちの社会は病気になってしまっていて、子どもたちにその症状が現れているのではないかという気さえしています。

Ⅳ.正気を取り戻そう

私は、人間らしさを取り戻さないといけない、と思います。私たちは正気を取り戻さないとならないのです。
今日の箇所は「山上の説教」の冒頭部です。6 節と9 節に「義」という言葉が繰り返されています。「義」というのは「正しさ」です。どういう意味での正しさの話をしているのか?こんな説明を聞いたことがあります。「聖書の言う『義』とは、神さまの神さまらしい振る舞いだ。」
そのことを踏まえて、6 節を見てみるとこのように書かれている。「義に飢え渇く人々は、幸いである。」ここでの「義」というのは、文脈から考えて私たち人間の義しいあり方という意味です。私たち自身の義がここで問題になっている。そうだとすると、ここでは「人間の人間らしさ」を問われていることになります。私たちが本当に人間らしくなること、私たちが正気を取り戻し本心に帰って生きること、そこに私たちの義がある。
それならば、人間の本当の意味での人間らしさというのは、一体何でしょうか。3 節には「心の貧しい人々は、幸いである」とあります。この「貧しい」という言葉には「乞食」という意味があるそうです。「乞食」という言葉は現代日本では不快語として使われなくなりました。
差別の歴史を負った言葉の一つです。確かに他人に対して使って良い言葉ではない。そのことをよく受けとめしながら、なお「心の乞食」とこの言葉を理解したいのです。「乞食」というのは、与えられなければ生きられないということです。神さまに対して、私たちはまさに「乞食」ではないでしょうか。神さまから憐れみを恵んで頂かなければ生きられない者ではないでしょうか。
YouTube は、決して「心の貧しい人々は幸いだ」とは言いません。豊かになることが幸いだし、精神的にも自立して神さまになんて頼らないことが幸いだ、と私たちの社会は教えます。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「心の貧しい人々は、幸いである」と。私たちは神の乞食です。神に寄りすがり、神の憐れみがないと生きられない。そんなあなたがたは幸いだ、と主はおっしゃいます。それが人間らしい生き方だ、と。神の乞食になることが人間としての正気を取り戻した生き方だ、とおっしゃるのです。なぜなら、天の国が近づいたからです。
天の国が来ている。だから、心の貧しいあなたは幸いだ、と主は言われるのです。
「悲しむ人々」も同じだと思います。この世は悲しむことに価値を置きません。悲しみは早く忘れた方が良い、と親切に助言します。感動の涙は礼賛して消費しますが、社会は悲しむ人に連帯しようとはしません。ところがキリストは天の国を宣言し、弟子を集め、その後すぐに先頭に立って病人のところへ赴きました。痛み悲しんでいる人のところへ進んで行かれました。キリストは、悲しむ人の側におられます。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」この「慰める」という言葉は「隣に呼ぶ」という字を書きます。他ならぬキリストが悲しむ人の側にいて、一緒に悲しんでおられるのです。
そのようにして生きたとき、10 節や11,12 節にあるとおり、義のために迫害されざるを得ないのだと思います。この世にあって天の国を生きはじめる人などは邪魔な存在だからです。この世にとっては都合の悪い価値観、おかしな「幸い」を持ち込む人々だからです。
日本に住む在留外国人の中で差別されている人が大勢おられます。恥ずかしい事実です。外国から来られた人々は日本の常識とは違っているので目立つし、場合によっては日本の暮らしになじめないこともあるでしょう。実は、私たち主の弟子は、同じ立場に立つのです。私たちもこの世界のヨソ者、天国人ですから。私たちはキリストが宣言した天の国に国籍を持つヨソ者ですから。
私たちが目を注ぐのは、主イエス・キリストです。実は、ここで語られていることはどれも、キリストが私たちにしてくださったことそのものです。天の国に生き始めるというのは、キリストが私にしてくださったようにする、ということなのだと思います。
皆が豊かさを追求して喜んでいるところで「ここに抑圧されて悲しんでいる人がいる」と言い、その悲しみに連帯することを私たちは願います。この世のやり方に皆が歩調を合わせて上手くやっていこうとしているときに、主イエスが望んでおられることは何かと私たちは問います。そうやって、心清く生きる道を選ぶ。この「清い」というのは「単純」という意味だそうです。心単純に、愚直にキリストに従う。そこで私たちは神の子キリストを見る。私のためにすべてを献げてくださったキリストを。キリストを下さった神の愛を、私たちは目の当たりにするのです。