名前で生きる
西川裕巳神学生 奨励要約
2026年8月9日
ヨハネによる福音書20章11-16節
イザヤ書43章1節
Ⅰ. 名前を呼ばれて主と出会う
マリアは、主イエスのご遺体がおさめられていたはずの墓の前で、涙を流しています。主イエスとの死別の悲しみに追い打ちをかけるようなショックなことが起きています。墓の中に主イエスのご遺体がなくなっているのです。彼女は、「だれかが私の主を取って行きました。」と言います。しかし、聖書は、マリアにこう問い掛けます。「なぜ泣いているのか。」マリアに向けてもう一度同じ声が掛けられます。「なぜ泣いているのですか。」二回目の声は、彼女の背後からのものでした。彼女の後ろには、主イエスご自身が立っていたのです。しかし、マリアは、後ろを振り向いても、主イエスであることに気付きません。
そして、興味深いことですが、彼女は、自分の名を主イエスに呼ばれたとき、その時初めて、復活の主と出会うのです。主イエスが「マリア」と声を掛けたとき、彼女は「先生」と言っています。聖書は、この言葉だけ、ヘブル語でマリアの肉声をそのまま残しています。「ラボニ」、より原語に近くいえば、「ラッブーニ」、私の大いなる方、私の先生という意味です。
私たちもまた、神様に名前で呼ばれています。今まで、自分の名というものが、神様とは無関係なものだと思っていたのに、私たちに信仰が与えられ、信じて生きていく中で、小さな者であっても、神様はその名を呼んでくださるお方だということが分かってきます。神様が、一人ひとりの名を呼ばれています。羊飼いである主イエスは、自分の羊の名前をすべて覚えておられます。そして私たちは羊であり、羊たちは、羊飼いの声に聞き従います。
イザヤ書43章1節のみ言葉に聞きたいと思います。「しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方、イスラエルよ、あなたを形づくられた方、主は今こう言われる。恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。」
名前で呼び、名前で呼ばれるということは、互いに親しい関係を表わします。名前は、単なる記号ではなく、その人そのものを表すものです。名で呼ばれているということは、私という存在そのものが神に呼び出されていることでもあります。
Ⅱ. 名前をめぐる社会の変化
しかし、ここで敢えて、異なる視点から次のように問いたいと思います。「私たちは自分の名前を呼ばれることを望んでいるのだろうか。」という問いです。社会において、名前をめぐる状況というものが急速に変化してきているという思いがあるからです。今の時代、様々な場面で、名前に代えて番号が用いられますし、ウェブ上では、実名を使うことは余りなく、ハンドルネームやIDで済んだりします。プライバシーの問題、そして、個人情報を守るという課題もありますが、日本において、この半世紀、名前を取り巻く環境は大きく変わりました。
名前というものは、家族や教会という共同体、コミュニティの中で、互いに愛し愛されるために共有されてきたものといえるでしょう。しかし、近年では、管理をしたり保護したりする対象として、むやみに表に出さないものとしての、個人情報へと様変わりしてきているように感じるのです。このような変化は、教会につながる私たちにとっても、決して他人ごとではないように思うのです。私たちは、名前で呼ばれることを余り好ましく感じなくなっている、そのような時代に生きています。
名を伏せて活動することに慣れている私たち、プライバシーに敏感な私たち、匿名で生きることがデフォルトとなっているかもしれない私たちです。しかし、今日においても、人が神に名指しされ、呼び出される、そのような人と神様との関係に変わりはありません。
Ⅲ. 神様の「二度呼び」
ですから、今、神様は私たちを名で呼び続けてくださいます。聖書を読むとき、神様の人への語り掛け、とりわけ、「神様からの二度呼び」といってよいような場面に遭遇します。神様は、人の名を繰り返し、呼んでくださいます。創世記では、アブラハムが、愛する息子イサクを神様にささげるその場面で、天から、主の使いが「アブラハム、アブラハム」と呼び掛けます(創世記22:11)。また、モーセは、燃える柴を見ようと近づいたとき、神様から「モーセ、モーセ」と呼び掛けられ、「履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。」と告げられます(出エジプト3:4)。さらに、少年サムエルは、夜、神殿で眠っていたとき、主が来て立ち、「サムエル、サムエル」と呼び掛けられます。サムエルは「主よ。お話ください。僕(しもべ)は聞いております」と答えます(サムエル記上3:10)。
主イエスも、シモンを「二度呼び」されます。「シモン、シモン」、「私は信仰がなくならないようにあなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」迫りくる試練を前に語られた言葉です(ルカ22:31、32)。
そして、サウルが回心する場面は大変有名です。クリスチャンを迫害していたサウロが耳にしたのが、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。」、「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」というお言葉でした(使徒9:4)。神様は私たちをあきらめないで、私たちを名で呼び続けてくださるお方です。
私たちがこの方の語り掛けに応えていくとき、本当の意味で、神の前で自分の名前で生きることができるのではないでしょうか。神様の「二度呼び」には、神のご計画、私たちへのチャレンジがあります。私の名前を神がコールし続けてくださる、そのことを深く受け止め続けることは、クリスチャンの特権だと信じます。
Ⅳ. 主のみ名によって
そして、私たちは、神様によって自分の名前を受け止め直すことができるとともに、主のみ名によって生きるようにと召されているのです。
ヨハネの福音書20章31節には、この福音書が書かれた目的が記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって、命を得るためである。」私たちは、イエスの名によっていのちを得るために召されているのです。
また、コロサイの信徒への手紙3章17節、パウロの言葉にも聞きましょう。「言葉であれ行いであれ、あなたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」。
ローマ帝国の時代、もっとも偉大な存在とされたのがローマ皇帝でした。皇帝のみ名よりも大きな名前などなかった時代、初代教会のリーダーである使徒ペテロは、神殿や議会の場で、公然と、このように言い放ちました。使徒3:6「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」、使徒4:12「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
さらに、パウロは、このように言います。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスのみ名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神が崇められるためです。」(フィリピ2:9-11)
今の時代に共に生かされている私たちにとって、イエスのみ名によって生きることを妨げるような存在、「ローマ皇帝」のような存在とは一体何でしょうか?もちろん、時代によって国によって人によって違いがあり、これである、と一概に言えるものではないでしょう。
しかし、もしも、人が、神様から自分の名を呼ばれているということを忘れたとき、人は、自分よりもより大きな存在、例えば、自分が属している組織とか国家のうちに自分の存在のよりどころを見出してしまうかもしれません。また、人が、主イエスのみ名によって生きるということを忘れた時、神様よりもちっぽけな、国家とか組織のようなものに、自己のアイデンティティを見出すようになってしまうかもしれないのです。
しかし、約2千年前に生きた使徒ペテロと同じように、私たちも次のように告白したいのです。使徒4:12「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と。キリストのみ名によって生きること、そして自分の名前で生きること、この二つは、決して矛盾するものではありません。
主イエスキリストの名によって生き、神によって呼び出され召されている私たち自身の名前で生きる。今週も、酷暑の中、私たちは、この2つの名前で歩んでゆきたいと願います。
お祈りいたします。


