あなたの神は誰なのか?
宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年8月16日
列王記下17章13-17節
ローマの信徒への手紙1章16-23節
Ⅰ.僕達はキリストを知らなかった
8月16日という日に、この高座教会で、ご一緒にこの御言葉を聞くことができるというのは神の導きであると信じています。
81年前の昨日は私たちの国が戦争に敗れたことを認めた日でした。私たちの教会はその後しばらくして誕生しました。厚木基地の従軍牧師から渡された一冊の小さな英文聖書。それを読んだ私たちの先輩は互いに語り合ったと言います。
「君、戦争をした事が大きな間違いであったのは、万人が認めて反省しているところだ。何故にこんな間違いを犯したかがこの聖書を読んで初めてわかった。僕達はキリストを知らなかったからだ。僕達に『クリスチャニティ』がなかったからだ。これから日本が立ち上がっていくのには、クリスチャニティを身につけるほかにない。これは大変な本だ。みんな読むべきである。これこそ本物だ。」
私たちの教会の原点となった告白です。僕達はキリストを知らなかった。僕達にはクリスチャニティがなかった。だから戦争という過ちを犯した。私たちの教会はこの告白から始まりました。ですから、私たちが今年の8月にも絶えることなく神を礼拝し、キリストの前にひれ伏しているということにはかけがえのない意味があると私は信じています。
今日の御言葉には「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(18節)と書いてあります。「神の怒り」とあります。神は何に対して怒っておられるのか?それは「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬と不義」とあります。一体何を意味しているのでしょうか?
例えば、今日のところよりも先のところですが29節以下を見てみるとこう書いてあります。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になった・・・・・・」。こういうところを読むと思うかもしれません。ああその通りだ。今の日本の社会はまさにここに書いてあるとおりだ。日本はどんどん悪くなっている。無価値なことばかりを追い求めて、悪事を企み、無分別になっている。そういう人間の罪に対して神が怒りを燃やすのは当然ではないか。
確かにそうかもしれない。今のこの社会は問題だらけです。しかし、私は思います。私たちの目に飛び込んでくる問題ある社会の姿は、ただの「現象」にすぎないのではないか。私たちの肉体に例えれば、熱が出たとか頭が痛いとかお腹が痛いとか、そういった「症状」です。熱があるからとてただの風邪とは限らない。単なる腹痛と思っていたら、実は大きな病気が潜んでいるかもしれない。社会も同じです。今私たちの目に飛び込んでくるいろいろな「問題」の背後に何があるのか。見えないところで何が起こっているのか。どういう原因が潜んでいるのか。どこに社会の病の根本的な原因があるのか?それが本当に問うべき事ではないか。あの敗戦から81年を迎えた夏にそのことを改めて考え直すということには意味があると思うのです。そのためにも「神の怒り」を語る聖書のメッセージによく耳を傾けたいのです。
Ⅱ. 神のシャローム
しかしそうは言っても、私たちは正直言って「神の怒り」なんて言葉は聞きたくないし、考えたくもありません。牧師がやたらと「神の怒り」なんて口にすることには感心しない、とお思いの方もおられるかもしれません。そうやって人を脅して信仰を迫るなどというのはカルトのやり口だ、ということになりかねない話のようにも感じてしまいます。
しかし、聖書が言う「神の怒り」というのはそういう事なのでしょうか?
今日は16節から読みました。先月も16、17節は読みましたが、18節と深い関わりを持っていると思い、改めて16節から朗読しました。
16節には「私は福音を恥としません」と書いてあります。これを受けて17節には、(要点だけ訳すと)「なぜなら、神の義が啓示されているからです」と書かれています。そして18節も実はとてもよく似た文章なのです。「なぜなら、神の怒りが啓示されているからです。」
16節から17、18節の流れをこうしてみてみると、とても興味深い。パウロは福音を恥としないと告白し、その理由を二つ述べています。一つは、福音には神の義が啓示されているから。そしてもう一つは、福音には神の怒りが啓示されているから。神の義と神の怒りが啓示されているのが福音だ、と言っていることになります。これは私たちにとっては大変意外なことではないでしょうか。神の怒りが福音だなんて、私たちは考えたこともありませんから!
そもそも、神様の怒りというのは、一体どういうことなのか?神はなぜお怒りになるのか?神の怒りと神の義はどう関係しているのか?
世界が創造されたとき、初めに造られた二人のことを考えてみたいと思います。神様は二人を完全な愛と祝福の中に造り、命をお与えになりました。愛と祝福を私たちと結ぼうとする神のご意志を、聖書は「神の義」と呼びます。二人は神の義が生み出す「シャローム」の中に命を与えられました。シャローム、それは平和であり平安です。神様は二人が生きることを望み、喜んでくださいます。そして彼らも神様を愛し、互いに愛し合い、造られた世界を管理し、喜んで生きるのです。神様の完全なシャロームが二人のために準備されていました。
その世界で、二人は神様の言葉ではなく蛇の言葉に従うことを選びました。二人は神を捨てて、神に従うことをやめました。「食べるな」と命じられていた木の実を彼らは食べた。二人は神を捨てて神の前から立ち去りました。二人は神のシャロームを踏みにじって捨てたのです。そのとき、神は「どこにいるのか」と呼びかけて二人を捜しました。彼らをシャロームの中に連れ戻すために。
このとき、神様は悲しみ、怒っておられたのではないでしょうか。どうして私を捨てたのだ?どうしてなのだ?なぜ、すべての祝福と喜びと命を捨てて私の前から立ち去ってしまったのだ?お前たちの命の源である私をどうして捨てたのだ?なぜシャロームを捨てたのか?神様はそう問うておられたのではないでしょうか。「どこにいるのか。」早く帰って来い!
シャロームを生み出す神の義と神の怒りとは一つです。どうして神は怒るのか?私たちを愛しているからです。どうして私の愛から迷い出てしまったのだ、早く帰ってこいと神は私たちを求めておられるからこそ怒るのです。
20節に「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです」と書いてあります。天地が造られたときから、私たちは神を知ることができたはずだ。なぜか。19節には「神がそれを示された」とある。神は、いつでも、どんなときにも、ご自分の愛も、私たちに向けた祝福も示し続けてくださっています。なぜ神の愛を捨てるのかと私たちを呼び、求めておられるのです。
Ⅲ. あなたの神は誰なのか?
もしも今の私たちの社会が先ほど聖書に書いてあるのを読んだとおりに「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になった」のだとしたら、それは、私たちの社会が神様のシャロームを捨てた結果ではないでしょうか。
23節には「不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです」と書いてあります。私たちは生ける真の神を捨てて、現代の社会に渦巻く「蛇の声」に聞き従って、神様が備えてくださったシャロームを捨てた。だから、私たちはこんなにも痛んでいるのではないでしょうか。私たちの国はかつて天皇を神と崇めて、あの戦争を戦いました。今、私たちの神は誰でしょうか?私たちは誰を神と拝んでいるでしょうか?私たちは一体誰にシャロームを求めているのでしょうか。
私たちのための完全な愛と憐れみによって示された神の義は、私たちに無関心ではありません。神は、私たちをとことん愛しておられる。怒り妬むほどに愛しておられるのです。
まことの神は、私たちのために怒る神です。神の目を逃れて隠れたあなたを諦めることなく、捜し続けてくださる神です。まことの神は、迷い出たたった一匹の羊を見つかるまで探し続けてくださる方なのです。
私たちには、クリスチャニティが必要です。キリスト信仰が私たちの社会には必要不可欠です。神様のシャロームだけがこの世界に平和を造るのです。これこそ本物です。私たちを愛し、私たちをどこまでも追い求める神。怒る神。この方だけを崇め、礼拝する。
ここに私たちが人間らしく生きる道があるのです。


