逆風の中を来られる主
和田一郎牧師 説教要約
2026年8月30日
出エジプト記14章10-22節 マルコによる福音書6章45-56節
Ⅰ.主に送り出された先で出会う逆風
前回は、五千人以上の人々に食べ物を与えられた出来事を読みました。イエス様は、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れみ、御言葉とパンによって養われました。今日の話は、その出来事に直接つながっています。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」とあります。「強いて」と訳された言葉からは、イエス様が強い意志をもって弟子たちを舟に乗せたことが分かります。弟子たちは、自分勝手に舟を出したのではありません。イエス様に命じられて、向こう岸を目指したのです。
ところが、その彼らが逆風に遭いました。主に従って進めば、いつも風が穏やかになり、物事が順調に運ぶとは限りません。むしろ、主に従って歩み始めたからこそ、逆風の中に置かれることもあります。教会も、信仰者の人生もそうです。「主に従っているのに、どうしてこんな困難に遭うのか」と思うことがあります。しかし、逆風に遭ったことは、主の道から外れた証拠ではありません。弟子たちは、主に送り出された道の途上で逆風に遭ったのです。
一方、イエス様は群衆を解散させた後、祈るために山へ向かわれました。五千人を養うという大きな働きを終えた直後、主は人々の称賛の中にとどまらず、独り父なる神の前に立たれます。弟子たちが湖の上で格闘している時、イエス様は山の上で祈っておられました。弟子たちには主の姿が見えなくても、主は彼らを忘れておられたのではありません。
Ⅱ.漕ぎ悩む弟子たちを見ておられる主
夕方になると、舟は湖の真ん中にあり、イエス様だけが陸地におられました。弟子たちは向かい風のため、思うように前へ進めません。「漕ぎ悩んでいる」とあります。懸命に漕いでも、風に押し戻される。努力しても状況が変わらない。疲れだけが積み重なっていく。そのような夜でした。ガリラヤ湖を船で横切る話は、これまでにもありました。第一回は4章35節以下です。嵐の中で眠っておられたイエス様が起き上がり、風と波を叱られました。その時、弟子たちは「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と問い合いました。
第二回は6章30節以下です。弟子たちを休ませようと向こう岸へ渡ったところ、大勢の群衆が待っており、そこで五千人の給食が行われました。そこでの問いは、「一体この方はどなたなのだろう。わずかなパンと魚で、これほど大勢の人を養われるとは」というものでした。
そして三回目が本日の箇所です。「一体この方はどなたなのだろう。湖の上を歩いて、私たちを救いに来られるとは」と、再びイエス様がどなたであるかが問われています。湖を渡るたびに、弟子たちはイエス様について新しく教えられます。湖を横切ることは、単なる場所の移動ではなく、弟子たちの信仰が深められていく過程でもあるのです。48節には、大切な言葉があります。「イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」
夜の暗闇の中、湖の中央にいる弟子たちからは、山の上のイエス様は見えなかったでしょう。しかし、イエス様には弟子たちが見えていました。私たちにも、主がどこにおられるのか分からない時があります。祈っても答えがないように思え、独りで逆風と闘っているように感じることがあります。しかし、私たちから主が見えない時にも、主は私たちを見ておられます。私たちが漕ぎ悩み、疲れ果てている姿を、主は知っておられるのです。
Ⅲ.逆風の中を歩いて近づかれる主
夜明け前、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られました。弟子たちを助けるために近づかれたのです。ところが、弟子たちはそのイエス様を見て、「幽霊だ」と思い、恐怖のあまり叫びました。見間違えたのではありません。イエス様だと分かっていて、それを恐怖に支配されて、本当は助けである方を「幽霊だ」と思ってしまったのです。しかしイエス様は、恐れに取り乱す弟子たちにすぐ語りかけられました。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」「私だ」という言葉は、単に「幽霊ではなく、私だ」と身元を知らせただけではありません。旧約聖書において、海を踏み歩くことができるのは神だけです。ヨブ記9章8節には、「神は自ら天を広げ大海の高波を踏み歩く」とあります。荒れ狂う海、混沌と死を象徴する水の上を歩いて来られるイエス様は、神の権威をもつお方です。「私だ」という言葉にも、神がご自身を現される響きがあります。
また、イエス様が「そばを通り過ぎようとされた」という言葉も、弟子たちを無視しようとしたという意味ではありません。旧約聖書では、神がモーセやエリヤの前を通り過ぎ、ご自身の栄光を現されました。ここでもイエス様は、海を支配する神として、弟子たちにご自身を現そうとされたのです。イエス様が舟に乗り込まれると、風は静まりました。けれども、著者マルコは弟子たちの反応について、厳しい言葉を記しています。
「パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである」この52節は、今日の話を理解するキーセンテンスです。この湖の上での話の中に、直前の五千人の給食の中の「パン」のことが出てくるのです。弟子たちは、少し前に五つのパンの奇跡を目の前で見ていました。それでも、その出来事が何を示しているのか理解していませんでした。パンについての認識を誤ることは、キリストについての認識を誤ることにつながります。五千人を養われた方がどのような方なのか?分かっていれば、湖の上を歩いて来られる方を見ても、幽霊だとは思わなかったはずです。奇跡を見ることと、イエス様がどなたであるかを信じることは、必ずしも同じではありません。
新約学者クウェスネルは、この52節をマルコ福音書全体を理解する鍵があると考えました。弟子たちが理解できなかったのは、パンが増えた仕組みではありません。そのパンを与えたイエス様が、いったいどなたであるかを理解できなかったのです。マルコ福音書では、パンの出来事が繰り返され、やがて最後の晩餐へとつながります。五千人を養われた主は、最後にはご自分の体を、裂かれるパンのように私たちへ与えてくださいます。しかし弟子たちは、力ある救い主は期待しても、自らを裂いて与える救い主を理解できませんでした。ですから、パンについて悟らないことは、イエス様について悟らないことなのです。マルコ福音書は私たちにも問いかけます。「あなたは、主イエスをどなたとして見ているのか」と。海の上を歩く力ある神の子は、同時に私たちのために十字架でご自身を与えられる救い主です。
Ⅳ.舟から降りても続いていく主の救い
湖を渡り終えた一行は、ゲネサレトの地に着きました。人々はすぐにイエス様だと気づき、病人を床に乗せて運んできました。イエス様が村や町や里に入られると、人々は病人を広場に置き、せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願いました。そして、触れた者は皆、救われました。ここには、舟の中とは対照的な姿があります。弟子たちはイエス様を見て「幽霊だ」と見誤りましたが、ゲネサレトの人々は「イエスだと気づき」、助けを必要とする人々を主のもとへ連れてきました。主を正しく知ることは、苦しむ人を主のもとへ運ぶことにつながります。
イエス様の救いは、湖の上で風を静めて終わったのではありません。舟から降りた後も、町や村を巡り、病む人、弱る人、助けを必要とする人に触れていきました。主は私たちを逆風から救うだけでなく、救われた私たちを、苦しんでいる隣人のもとへ遣わされます。教会という舟の中で主の平安を受けた私たちは、舟の外にいる人々を忘れてはならないのです。
私たちの人生にも逆風は吹きます。懸命に漕いでも前に進めず、主の姿さえ見えなくなる夜があります。しかし、主は山の上から私たちを見ておられます。そして、逆風のただ中を歩いて、私たちのところへ来てくださいます。
「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」
私たちが逆風に立ち向かう力は、自分の力ではありません。私たちを見つめ、近づき、同じ舟に乗り込んでくださるイエス・キリストの存在があってこその力です。これまで御言葉のパンで養ってくださった主は、今も私たちを忘れておられません。その主を舟に迎え、御言葉に励まされながら、向こう岸を目指して歩んで行きましょう。
お祈りいたします。


