見捨てないから平和なんだ

<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2026年10月11日
イザヤ書49章15節

Ⅰ.映画『ベン・ハー』が教える「一杯の水」

今月は歓迎礼拝です。教会が初めてという方、久しぶりだという方々を歓迎いたします。ところで、かつて日本でも大ヒット名作映画に『ベン・ハー』があります。最後の馬車レースのシーンが圧巻で有名ですが、私は「一杯の水」が要所で出てくることに注目しました。舞台は、今から約二千年前、ローマ帝国が支配していた時代のエルサレムです。主人公のベン・ハーは、裕福なユダヤ人の青年でした。しかし、無実の罪を着せられ、奴隷として送られることになります。鎖につながれて炎天下の荒れた道を歩かされていきます。疲れ果てたところでナザレという村に差しかかり、兵士たちは囚人たちに水を与えます。しかし、ベン・ハーだけには目をつけられていて、飲ませてもらえません。もう歩くこともできません。そこで彼は、絞り出すように神に助けを求めます。その時、一人の青年が近づいてきて、一杯の水を飲ませてくれるのです。それが、若き日のイエス・キリストでした。その後の物語でも、見捨てられた人の前に「一杯の水」を差し出す人が現れるのです。そして、ベン・ハーは、イエス様が裁判にかけられたあと、十字架を背負って処刑される所に立ち合います。イエス様を見て「あの時、水を飲ませてくれた人だ!」と気づき、今度はベン・ハーが一杯の水をイエス様に差し出そうとするのです。映画を通して、見捨てられた人々に、一杯の水を差しだす人が現れて、「あなたは見捨てられていない。あなたの苦しみを、私は知っている。」と、神の愛はどんな人をも見捨てない、というテーマがあるように思いました。

Ⅱ. 今、世界と私たちの町が必要としているメッセージ

私たちは、平和という言葉を聞くと、戦争や争いがないことを思い浮かべます。しかし、それだけではなく聖書が語る平和は「シャローム」と言い、神様との親しい関係の中に生きることを意味しています。神様に知られている。神様から見捨てられていない。その関係の中にこそ、聖書の語る平和があるのです。映画ベン・ハーに出て来る「一杯の水」は社会から見捨てられた人に対する、神様の平和を伝える象徴だったのです。
現代の私たちはどうでしょうか。社会から見捨てられた人は、聖書の時代から2千年たった現代にもいます。たとえばウクライナから見て、ロシアは圧倒的に大きな大国です。世界が支援しなければ圧倒されるでしょう。パレスチナ地方のガザはもっと悲惨です。イスラエルは世界でも有数の高所得・ハイテク国家です。一方、ガザは国家でもなく、220万人の難民がひしめき合って暮らしているに過ぎない所に、世界最強クラスの兵器で一方的に攻撃している。国際社会の人道支援が止められてしまえば、ガザの人々は爆弾ではなく、ただの「渇き」と「飢え」によって数日で全滅してしまう環境に置かれています。それがまかり通っているのが、私たちの住む世界の現実です。
このように、国家の力や経済力という『圧倒的な格差』の前に、孤立した弱者が簡単に踏みにじられていくのが、この世界の冷酷な現実です。しかし、こうした目に見える暴力や分断は、遠い国々の出来事だけではありません。形を変えて、私たちが暮らすこの日本の、日々の生活の中にも確実に忍び寄っています。
 現代を生きる私たちの日常はどうでしょうか。戦争や震災といった目に見える惨禍だけでなく、一見、平和で豊かに見えるこの社会の足元にも、深く冷たい「渇き」が広がっています。それが、現代社会特有の「見捨てられ不安」です。私たちは成果を出し、役に立つ人間であることを求められます。「条件付きの評価」にさらされ続けています。弱い自分を知られたら誰も味方になってくれないという孤独感を深めています。そこへ一度のつまずきも許さない社会の不寛容な空気が追い打ちをかけ、誰もが弱音を吐けず、助けを求めることすらためらってしまいます。こうして豊かさの中で、見捨てられる不安にあるのです。

Ⅲ.イザヤ書に見る、見捨てない神の愛

旧約聖書のイザヤ書は、イスラエルの歴史の中で語られた預言の書です。国を失い、遠いバビロンの地に連れて行かれた人々への慰めと希望の言葉が記されています。紀元前6世紀、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされました。首都エルサレムは破壊され、神殿も焼かれ、多くの人々が捕囚として異国へ連れて行かれました。
彼らにとって、これは単なる政治的な敗北ではありませんでした。自分たちは神様に選ばれた民だと信じてきたのです。神様が共にいてくださると信じてきたのです。その神殿が壊され、故郷から引き離されてしまった。なぜ、神様は私たちを助けてくださらなかったのか。神様は、もう私たちのことなど忘れてしまわれたのではないか。
聖書は、そういう人間の叫びを否定していません。むしろ、そのような叫びを聖書の中に残しているのです。「たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。」母親が、自分のお腹を痛めて産んだ乳飲み子を忘れることがあるだろうか。普通であれば、考えられないことでしょう。しかし、人間の愛には限界があります。どれほど深い愛であっても、疲れ果ててしまうことがあります。だからこそ、神様は言われるのです。「たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。」ここで大切なのは、神様が「あなたが私を忘れなければ・・・あなたが正しく生きていれば、私はあなたを見捨てない」とは言われていません。ただ、「私はあなたを忘れない」と。人間の側の立派さや、信仰の強さによって決まる愛ではありません。神様ご自身の愛に根ざした約束なのです。
ここで話は変わりますが、『ドラえもん』に「宇宙ターザン」というエピソードがあります。人気が落ち、誰も見向きもしなくなったヒーロー「宇宙ターザン」を、のび太君だけは応援し続け、周囲にバカにされても見捨てませんでした。そして、自分の果たしたその善意を、決して誰かに自慢したり誇ったりもしないのです。ここには、聖書が教える「キリストの愛」に通じるものがあります。見返りを求めず、相手の価値が世間で下がろうとも、ただ「愛するがゆえに伴走し続ける」。これこそが、神様が私たちに向けておられる眼差しです。聖書の平和、シャロームとは、こうした神様との関係のことなのです。

Ⅳ.決して手放されないという希望

先日、洗礼の学び会で、「聖徒の堅忍(神は一度選んだ人を守り抜くという教え)」を学んだ際、「洗礼を受けた後、気が変わって神に背を向け、人を傷つけ続けて生涯を終えた人は、最後の審判で救われるのだろうか」という話になりました。人間の正義感からすれば、「そんな人は救われない」と言いたくなるかもしれません。しかし、その答えは人には分かりません。ただ一つ、私たちが確信をもって言えることは、「たとえその人が神に背を向けても、神様はその人を愛し、見捨てることはない」ということです。私たちの裏切りや失敗よりも、神様の愛の方がはるかに大きい。神様は決して私たちを見捨てない。この神様との切っても切れない親しい関係こそが、私たちの「平和」であり、絶対に揺るがない希望です。
今日は歓迎礼拝です。皆さんがこれまでどんな人生を歩んできたとしても、今どんな痛みを抱えていても関係ありません。どんなことがあっても、どんな時でも、皆さんを決して見捨てることのない神様が、今、この場所に招いておられます。どうぞ、その大いなる平和の中に、あなた自身を委ねてみてください。
お祈りをいたします。