死から命へと移る恵み
松本雅弘牧師 説教要約
エゼキエル書37章11-14節
ヨハネによる福音書5章17-30節
2023年8月6日
Ⅰ. 「キリスト証言の書」としての聖書
クリスチャンって面白いですが一つの書物を何回も何回も飽きずに読む人たちです。主イエスご自身が「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」とあるように「人生の指針」、いやそれ以上に大切なのが聖書でしょう。5章39節を見ますと、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。」と主イエスご自身の言葉が出て来ます。聖書とは、イエスという人が一体誰なのかを証言する書物だ、と主イエスご自身が語っていることが分かります。
この点を踏まえた上で19節と24節と25節を見ていただきたいのですが、主イエスの「よくよく言っておく」という言葉が出て来ます。原文では「アーメン、アーメン、あなたがたに告げます」という言葉です。今日は、この言葉を手掛かりに、主イエスというお方がどのようなお方なのかを御一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ. 父なる神さまとの一体性
一つ目は19節と20節です。一言で言えば「父なる神さまとの一体性」ということでしょう。実は、この言葉に先立って福音書記者ヨハネは、主イエスの発言にユダヤ人が驚き、激怒したことを伝えています。その引き金となった主イエスの言葉が17節、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」という発言でした。
当時、ユダヤ教では、どんなに立派な人間であっても人間は人間、神さまは神さま、ということで、両者にはしっかりとした一線が引かれていました。勿論、これは今でも正しいこと、聖書はそのことを教えています。ただ主イエスは例外なのです。主イエスのユニークさは、100%人間であると共に、100%神と等しいお方である。17節の「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」の意味を、ユダヤ人たちはそのように受けとめた。だから激怒したのです。
Ⅲ. 命をもたらすお方
二つ目は24節、主イエス・キリストというお方は命をもたらすお方だ、ということでしょう。
ただ、一つだけ付け加えておきたいのですが、ここで主イエスが言わんとしている命、あるいは死とは、肉体的な死や命を超えたものを示しているということです。一言で言えば、命とは神さまとつながっている状態、逆に死は神さまから離れた状態のことです。
創世記の最初に出て来るエデンの園での出来事を思い起こしてみましょう。主なる神さまは、アダムとエバに「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」(創世記2:16-17)とおっしゃいました。ところが実際、彼らがその木から取って食べた結果、死んだかと言えば生物学的な意味で彼らは生き続けました。では、「取って食べると必ず死ぬ」とは実体のない単なる脅しの言葉だったのでしょうか。決してそうではありません。善悪の木から取った結果、彼らの中に起こった変化が、実は聖書が言うところの死の内実を表しています。つまり神さまとの関係が切れてしまった状態です。その結果、人間は自分を偽り、恥や恐れ、罪責感で心が一杯になり、そうした心の状態で神さまの御前に立たなければならなくなったことを知らされていきました。
神さまとの関係が切れた、つまり死の状態の現れの一つが、「責任回避」でした。そしてもう一つ、死の状態の現れとして、とても象徴的なのが、いちじくの葉っぱでしょう。神さまとの関係が切れてしまった人間は、自己受容が難しくなる。その結果、いちじくの葉で自分を隠し自分をよく見せようとしたのです。これも、命の源(みなもと)なる神さまとの関係が切れた人間に現れる傾向、聖書が言うところの死です。
主イエス・キリストというお方は、この命の回復のために来てくださった。ここでイエスさまご自身が語っておられるのはまさにそのことではないでしょうか。
ヨハネ福音書を読み進めていきますと、このあと15章では、ぶどうの木と枝の譬えで、イエスさまと私たちの関係が示されていくわけですが、命の源である主イ
エスにつながる時、死んだ状態にある者が再び命の中へと導かれていく。死から命へと移される。それがここで主イエスがお語りになった真理なのです。
Ⅳ. 永遠の命をもたらすお方
そして最後三つ目、25節をご覧ください。「よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」とあります。
永遠の命をもたらすお方が、主イエス・キリスト、言い換えれば、主イエスというお方は、裁きの権能を父なる神から授かっておられるということです。
聖書によれば、主イエス・キリストというお方は、全人類の罪のために十字架に架かって死んでくださり、私たちが受けるべき裁きを受けきってくださいました。そのようにして父なる神さまから義と認められたその義を、私たちに授けてくださる。ですから私たちがすべきことは、私をもお救いくださるイエス・キリストの神さまの御手に、一人ひとりが置かれていることを信じることです。
十字架に架かられた時、主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)と真剣に祈られました。この祈りこそ、父なる神さまに向かって捧げられた「最後の最後の祈り」です。「最後の最後」であるならば、イエスさまが父なる神さまに一番お願いしたかったことでしょう。最後の最後に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた。それが主イエスの切実な望みなのです。
そうした上で、今日の21節を見ていただきたいのです。ここに、「子も、自分の望む者に命を与える」とあります。「子も、自分の望む者に命を与える」。つまり主イエスご自身は、「望む者に命を与える」権限を持っておられることを明言されたのです。
そのお方、その主イエス・キリストが、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られたならば、まさに「自分が何をしているか分からない人も赦されて、命が与えられる」ことこそが、実は主イエスさまの一番の願い、切実な望みと重なってくるのではないでしょうか。
しかも、続く22節も見ていただきたいのですが、ここに、父なる神は父なる神で「誰をも裁かず、裁きをすべて子(すなわち主イエス)に委ねておられる」とはっきりと書かれています。十字架の上で広げられた、釘跡のある主イエスの両手の中に、そうした神さまの愛から漏れる人っていったい誰なのだろう、と思います。
主イエス・キリストというお方は、その両手をいっぱいに広げさせられ磔(はりつけ)になりながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っておられた。そして今日の箇所を見ると、「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」と明言されています。
聖書は、キリスト証言の書です。イエスというお方がキリストであり、何をして下さるのかを私たちに証ししています。
24節「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」主イエスの、この言葉は約束の御言葉です。このように信じて生きるようにとの神の招きの言葉です。この約束の御言葉を信じ、希望を持って、み子の与えてくださる約束を信じて歩んでいきたいと願います。
お祈りします。


