イエスについての証し
松本雅弘牧師 説教要約
詩編40編8-10節
ヨハネによる福音書5章31-47節
2023年8月13日
Ⅰ. はじめに
今日の聖書の箇所は、先週の続きで、主イエスの長い説教の後半部分です。
確認しておきたいのですが、ここでの一連の発言は、他でもない主イエスの命を狙うユダヤ人たちを前にしての発言です。5章に入り、安息日にベトザタの池で38年病に苦しんでいた人を癒されました。それをきっかけに、主イエスとユダヤ人たちとの間に論争が始まった。そして先週の箇所の5章17節で、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と明言しておられます。つまり38年病に苦しんでいた人を癒した、その癒しの業は、まさに神の業なのだ、ということでしょう。
これをきっかけにユダヤ人たちは激怒するのです。勿論以前から主イエスに対する殺意はあったでしょう。しかしこれを境によりエスカレートしていく。8節「ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった」とあるように殺害を腹に決めたのだと思うのです。
一介のナザレ村の大工の息子です。その男が私は神の言葉であり、私の父である神が私と共に働いている、そう言い放った。ユダヤ人からしたらとんでもない発言です。神の側からしたら冒涜に値する。
ところで、この出来事はユダヤでの出来事です。当時ユダヤでは、証言というものは、本人以外の誰か別の人によってなされなければならないというのが、証言や立証がつきものの裁判の席での大前提でした。
例えば申命記19章15節に次のような御言葉があります。「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。…二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。」
ですから今日の31節を見ていただきたいのですが、「もし、私が自分自身について証しをするなら、私の証しは真実ではない」と語られたのはこうした背景があっての言葉、つまり律法をもとに話を進めようとしておられる。もっと言えば、二人以上の証人をもって、自分が誰であるかを示そうとしておられるということでしょう。
そうした上で主イエスが最初に証言席にお呼びしたのが他でもない父なる神さまです。32節がそのことを表しています。「私について証しする方は別におられる。そして、その方が私について証しする証しは真実であることを、私は知っている。」
Ⅱ. 主イエスについての証し
ただここで一つ課題がありました。この時、主イエス自らが証明しようとしている相手は、他でもない主イエスを殺害しようとしているユダヤ人たちでした。「私について証しする方は別におられる。そして、その方が私について証しする証しは真実であることを、私は知っている。」と語り、たとえそれが真実だとしても、ユダヤ人の誰が信じるでしょうか。無理だと思います。
そこで主イエスはどうしたかと言いますと、33節からのところですが、彼らの求めに応じるように、ユダヤ人たちからも一目置かれていた洗礼者ヨハネを証言者として引き合いに出すのですが、主イエスは、洗礼者ヨハネについても、34節「私は人間による証しは受けない」と言われました。だとしたら主イエスは誰の証言、何によってご自身を証明しようとするのでしょう。実は、その一つが主イエスご自身の業という証し、そしてもう一つが、聖書による証言でした。
Ⅲ. 主イエスご自身の業によって、聖書によって
二千年前のこの時、イエスという名の人物はパレスチナの地に居たわけです。私たちもこの時、エルサレムに居合わせたとしたら、主イエスに癒していただいた、あのベトザタの池に居た男と出会うことが出来たでしょうし、何よりも、主イエスを肉眼で見ることもできたはずです。でも本当に不思議なのですが、実際に主イエスと出会い、主イエスの姿を見ていたユダヤ人たちはそのイエスを信じるどころから殺そうとしているのです。
そう考えて見ますと、肉眼で見る以上に、そのお方が一体誰であるのかを証言する、そのお方が用意してくださった証しに従って、そのお方を知って行くことの大切さを思うのです。36節をご覧ください。「私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。」
そのようにして主イエスが備えてくださった証しが、ご自身の「業そのもの」だった。主イエスがなさったことが、主イエスがキリストであり、神の子であることを証しするというのです。
この後、9章まで読み進めていきますと、生まれつき目の見えない盲人と主イエスとの出会いが紹介されます。興味本位の弟子たちが、2節「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問したのに対して、主イエスは、3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになり、彼の視力を回復されたのです。まさにその時の「神の業」とは「愛の業」でした。主イエスのご生涯全てが愛の業であり、その究極の業が十字架でした。
主イエスが証言台に招いた二つ目の証しは聖書です。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)。クリスマス賛美礼拝で必ず朗読されるイザヤ書53章はその代表のような個所でしょう。勿論、旧約聖書には、先ほどの主イエスが「聖書は私について証しをする」と言われる時、一体どのように証ししているのか簡単には分からない言葉もたくさん出て来ます。しかし、そうした言葉を含めて、ご自身を証しする書として聖書があることをイエスさまは断言しておられるということでしょう。
Ⅳ. 神との交わりが深まることを求めてる
ところで、37節をご覧ください。「あなたがたは、父の声をまだ聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」これは他でもない殺意をもって主イエスを取り囲んでいたユダヤ人に向けて語った言葉です。考えて見ますと、今日もこうして礼拝に集まった私たちも、ここの登場するユダヤ人と変わりないのではないでしょうか。私たちも彼らユダヤ人同様、父なる神さまの姿も声も聞いたことがない。ただ、そうであるにもかかわらず、不思議なのですが、そのお方を信じているのです。
洗礼を受ける前、教会に通い始めた頃、正直、どのように何を信じたらよいか分からないことがありました。教会に行くと「神さまに語っていただいた」という証しを何度も耳にしました。そんな証しを聞く度に心に焦りが起こりました。私自身は幾ら祈っても、聖書を読んでも、いっこうに音声として私の耳には聞こえて来なかったからです。
あるいは、「私と主イエスとの出会いは」と言って語りだす「証し」を聞く機会がありました。その度に、〈エッ、どういうこと…?〉と戸惑うだけでした。
昨年の暮れ、ノンフィクション作家の最相葉月さんによる、『証し―日本のキリスト者』が角川書店から出版されました。日本全国の教会を訪ね、「なぜ、あなたは神を信じるのか。神とは何か」という問いを投げかけた応答をまとめた書物です。
「あるとき、魔が差したというか、重要な検査項目を見落としていた。なんでこんなミスをしたんだ。もう明日から働けないって思ったんです。そうしたら、次の日曜日、たまたま読んだ聖書の箇所が『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』(マタイ11:28)だった。涙が溢れてきて、ああ私、またここで神様にとらえられているんだって思ったんですよ。本当に神様は私のことを見ていてくださったんだなと。」
最相さんの取材に応じ、そのように応えた方がいました。そしてこの人も神の声を聞いたことも、神の姿を肉眼で見たこともなく信じた人です。
考えてみますと本当に不思議です。神を見たこともない、その声を聞いたこともない、それでも「信仰が成り立つ」。ある牧師の言葉を使うならば、「だからこそ、いつの時代においても、どこにおいても、誰にも、信仰は可能になる」。
福音書記者ヨハネの同僚であった使徒ペトロはこの事実を次のように表現しています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」(Ⅰペトロ1:8-9)
まさに今日の34節の後半で、「このことを言うのは、あなたがたが救われるためである」。主イエスの言葉通り、救いをいただいた。神さまとの関係が回復し、神さまとつながることができたからでしょう。
私はこの説教の準備をしながら、40節の大切さに心が留まりました。主イエスは、39節「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ」とお語りになり、続けて40節「それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」とおっしゃる。イエスさまそっちのけで聖書を読む。イエスさま不在の聖書研究が可能なのだというのです。
今日、このように礼拝に参りました。礼拝の目的は何でしょう。聖書を学ぶことでしょうか。説教を聞き、聖書の理解を深めることでしょうか。確かにそうしたこともあるでしょう。しかしそれはあくまでも手段であり目的ではありません。目的はそこにおられる生ける主イエス・キリストの神さまを知ること、そのお方との交わりが深まることです。私は説教の準備をしながら、片岡伸光先生の『主の前に静まる』という書物を思いだしました。そこには、まさに主のもとに行く聖書の読み方、命の得方について書かれています。最後にそれをご紹介して終わりにしたいと思います。
「主の前に静まることからもたらされるものは種々ありますが、まず、第一に、主との交わりの意識が回復されることです。長年にわたり神から離れて生きてきた習慣がもたらすものが、私たちの感覚のうちに堆積されています。自動的に反応してしまう思考形態や、吟味されないような事態の受け止め方などです。神を信じると言いながら、人を恨んでいたり、場合によっては疑うか無視していたりします。静まりの中で私たちは、そのような神から離れたものの考え方や罪に囲まれて習慣的になった思いから解かれることができるのです。…『静思の時』をもつとき、いきなり聖書を開き、目で活字を追う前に、静まりの時をもち、私自身の全体が神に向くようになる時をもつことで、それに続く聖書を読む時が深められます。開かれた神のことばが私に語りかけることの可能性を広げます。主イエスが寂しいところに行き、ひとりになられたということは、とりわけそのためではなかったかと思われます。」
お祈りします。
