私って、どんな顔でしたっけ?

宮井岳彦牧師 説教要約
アモス書5章18-24節
ヤコブの手紙1章19-27節
2023年8月20日

Ⅰ. 本当に知っていますか、自分の顔を

「私って、どんな顔でしたっけ?」という少しおかしな題名を付けました。私って、どんな顔でしたっけ?そんなことを問うたら、鏡でも見れば良いじゃないかと言われてしまいそうです。今日、私たちに与えられている新約聖書の御言葉には鏡の話が出てきます。「御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は、自分の生まれつきの顔を鏡で映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。(23,24節)」
ここを読むと、不思議な気持ちになります。私たちは本当にそんなに簡単に鏡に映った自分の顔を忘れるでしょうか?むしろ、自分の顔は自分が一番よく知っていると思っているのではないでしょうか。集合写真があれば、まずは自分がどこに映っているかを見つけます。変な顔をしていないか気になる。他ならぬ自分を見つけようというときに、自分と他の人とを見間違えることなど考えられません。私たちは自分の顔をちゃんと知っているし、それを忘れることなど考えられないのではないでしょうか。
ところが、聖書は問うてきます。本当にそうですか、あなたは本当に自分を知っていますか、と。本当のところ、あなたは誰なのでしょうか。

Ⅱ. 本当のところ、あなたは誰ですか?

例えば19節です。「私の愛するきょうだいたち、よくわきまえておきなさい。人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。」こういう聖書の言葉を読むと、本当にそうだなと思います。確かにちゃんと人の話に耳を傾けることは大切だし、やたらに人に教えようとしたり、ましてすぐに怒ったりするのはよくない。ところが同時に「でも…」と言い訳も始まります。確かに聖書は良いことを言っているのかもしれない。でも現実はなかなか上手くいかない。人の話を聞くのは正直言って面倒くさいし、何やらゴチャゴチャ言っている人には自分の的確なアドバイスをしてあげた方が良いと思うし、相手が悪ければ怒るのは当然の権利だと思う。聖書が言うことも分かるが、現実は…。むしろ、聞くのに遅く、語るのに速く怒るのに速いのが自分の現実。これが私だ、と少し開き直りたくもなります
ところが、聖書は更に驚くべき事を言います。「植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい(21節)」。御言葉、すなわちキリストの言葉は、もう、あなたに植え付けられているのだ、と聖書は言うのです。キリストの福音の言葉は、私とは関係のないどこか遠くにあるのではない。遠い世界にある、理想的かもしれないけれど非現実的なものではない。もうすでに、それは私たちに植え付けられている。私たちの現実をつくり出している。しかも、その御言葉は「あなたがたの魂を救うことができます」とまで言っています。私の魂を救う力を持つ神の言葉が、この私に植え付けられている。それが私だ、それが私の本当の姿だ、と聖書は宣言するのです。びっくり仰天するような宣言です。
アメリカ合衆国長老教会が「はじめてのカテキズム」という小さな本を出しています。小さな子どものための信仰の手引きとなることを願って編まれたものです。その第一の問答にこのようなやりとりがあります。
問 あなたは誰ですか。
答 わたしは神さまの子どもです。
本当にすてきな信仰告白です。私たちの教会の子どもたちにも、喜んで同じように告白してほしい言葉です。私は神様の子ども。他の誰でもなくこの私も神様の子どもにして頂いた。これが聖書の告げる福音です。私たちは神の子です。それが聖書が見出す本当の私です。

Ⅲ. 柔和に、謙遜に、植え付けられた御言葉を受け入れよう

先ほどのヤコブの手紙にあった、私たちの魂を救うことのできる御言葉というのは、このことではないでしょうか。私たちは神の子。キリストはこの福音の言葉を私たちに植え付けてくださっている。この御言葉を謙虚に受け入れなさい、と聖書は言います。この言葉が私たちの魂を救うのですから!
ここに「謙虚」とあります。救いを告げる福音の言葉を受け入れるには、謙虚さが必要です。謙虚について、いつの間にか思い違いをしていたのかもしれません。「いやいや私なんて…そんな信仰深くありません」「神の子だなんて言って頂けるような私ではありません」なんて言って、遠慮することが謙虚だと思い込んでしまう。しかし、救いの福音を遠慮するのは、むしろ傲慢ではないでしょうか。
この「謙虚」という言葉は、例えば山上の説教では「柔和」と訳されて登場しています。辞書を引くと「自分を過度に重要視しすぎない感覚」とあります。自分の現実は聖書とは違いますから…と遠慮するのは、自分を過度に重要視しすぎているからなのかもしれません。もっと素直に受け入れてよいのではないでしょうか、私たちを神の子としてくださった神さまの救いの宣言を。もっと単純に信じて良いのです。私も神の言葉によって救われている、私を救うキリストの言葉は私にも植え付けられている、と。
それなのに、なぜ、せっかく神が植え付けてくださった福音の言葉を退けてしまうのでしょうか?なぜ、「あなたは神の子」と告げる福音の宣言を拒んでしまうのでしょうか?それは、鏡で自分の顔ばかりをじっと見つめるようにして、自分に満足したりがっかりしたりしているからなのかもしれません。いつの間にか、グルグル自分の中にとぐろを巻いているからなのかもしれません。

Ⅳ. キリストの言葉を一心に見つめる

聖書は言います。「しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人」。この「一心に見つめる」という言葉は、屈んでのぞき込むといった意味合いの字を書きます。イースターの朝、使徒ペトロは主イエスが納められているはずの墓に来て、屈んでその中をのぞき込んだように、じっと見つめる様子を表します。そのようにしてキリストの言葉をのぞき込む。自分を眺めるのではなく、キリストの言葉の前に屈み、のぞき込む。すると、その言葉が私たちを自由にする。あなたは自由な神の子!
興味深いことに、ここではキリストの言葉を「完全な律法、すなわち自由の律法」と呼んでいます。しかも、「これを一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人に」なる、と言います。完全な律法、自由の律法を行う人。それは、これまでのところを引き継いで言うなら、神の子らしく生きるということです。更に言い換えれば、主イエスさまに従うということです。
私は、鍵は主イエス・キリストご自身に他ならないと信じています。私たちを神の子として生かすために、キリストが一体何をしてくださったのか。その一事に尽きるのです。キリストは私を神の子として迎えるために、ご自分のすべてを献げてくださいました。その事実が私たちの骨身に染みたなら、私たちの生き方は必ず新しくなります。私たちはキリストがご自身を献げてくださって、もう既に新しくなっているのですから。

Ⅴ.神の子らしく生きよう

27節を見るとみなしごややもめが困っているときに世話をするという話が出てきます。みなしごややもめは、特に古代の社会ではいちばんの弱者でした。完全に男性中心の社会でしたから、生きるための寄る辺が全くなかったのです。社会の中でいちばん弱い立場にある人が困っているとき、私たちはどのように接するのか?それを方向付けるのが、キリストが私のために何をしてくださったのかという事実です。
キリストがしてくださったことを考えると、私ができることは本当に小さすぎて、大した意味もないなと思ってしまうようなものでしかないのかもしれません。しかし、必ず意味はあると思います。それはどんなに小さくても、キリストの完全な律法、自由の律法に促されてしたことです。言葉を換えれば、キリストに促されてしたことです。ですからそれはささやかであっても、キリストが喜んでくださっているはずです。他の誰でもなく、キリストがそれを望んでいてくださるはずです。大きいか小さいかとこだわる必要すらない。キリストが喜んでくださることが私たちの喜びです。そこには必ず、キリストの愛の実りが生み出されます。