聖霊の導きに委ねる

和田一郎副牧師 説教要約
出エジプト記23章10-13節
ルカによる福音書14章1-6節
2023年8月27日

Ⅰ. エンジョイ

先週は、夏の甲子園大会で神奈川の代表校が優勝しました。「エンジョイベースボール」をモットーにして自分で考え、自分に厳しく、プレイを楽しむというスタイルが印象的でした。生活の中で、喜びを現わしていくように教えているのが聖書です。「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)、「主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ」(ネヘミヤ8:10)。神を喜ぶことは生きる力になるのです。ウェストミンスター小教理問答の第1問で、人間の目的は「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶこと」とあります。そのための指針が神の律法です、特に今日の聖書箇所には安息日のことが示されています。

Ⅱ. 主イエスと安息日

ある安息日に、イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになると、水腫という病気を患っている人が座っていました。そこでイエス様は「安息日に病気を治すことは許されているか、いないか」と、律法学者やファリサイ派の人々に言いました。この日は安息日でした。律法の学者たちは、安息日にしてはいけない仕事についての細かい規定を作り、それを守るように人々に教えていました。ですからイエス様が律法を破って人の病を癒す仕事を行うのか?それとも病気の人を見過ごすのかを見極めようとしたのです。そこで、イエス様はその人の病気を癒やして家にお帰しになったのです。イエス様は「あなたがたは、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、放ってはおかないだろう。すぐに引き上げてやるではないか?」と問われました。これに対して彼らは、答えることができなかったのです。
ところで、安息日に人の病気を癒すという仕事をするのは律法違反なのでしょうか?マルコ福音書でイエス様は「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(2:27)と言われました。安息日は仕事をしてはいけない、と禁止することよりも、神様からの安息にあずかり、癒しにあずかる事が大切なのです。私たちの安息日も、仕事を休むことだけが目的ではなくて、仕事を休んで礼拝して神様の癒しにあずかることが目的です。主を喜ぶことは力になるからです。
しかし、ファリサイ派の人たちが目を配っていたのは、ルールを守るか、守らないかということにあったのです。その根底にあるのは、律法を管理するのは自分たちだとする利己主義です。神様に喜ばれるためではありませんでした。律法は神様に喜ばれる生活の指針ですから、喜んで守ることができるはずなのです。ところが律法の順守を振りかざして庶民を苦しめていたのが、既得権益を得ていたファリサイ派や律法学者たちの律法主義でした。

Ⅲ. フォックスの法則

律法を守ることは窮屈な生活になってしまうと思われがちです。確かに律法は窮屈になりがちですし、人を裁く道具にもなります。クエーカーの創始者であるジョージ・フォックスと、ウィリアム・ペンの話があります。ペンは上流階級の人でしたが、洗礼を受けてあらゆる価値観が変わっていきました。当時の上流階級の人は剣を身に付けていたのですが、クエーカーは平和主義と平等主義を大切にする宗派でした。そこでフォックスの所へ行き「剣を身に着け続けてよいものでしょうか?」と聞きました。しかし、フォックスは「できるだけ長く剣を身に着けていなさい」と答えた。ペン自身が、そのうち自分から判断できると信じていたのです。もしフォックスが命令していたら、素直に従っていたでしょう。しかし、聖霊に導かれるという信仰生活を壊してしまうことになるのです。
フォックスのこの対応は、人の霊性を導くための重要な原則を現わしているのです。一度「剣を身に着けてはならない」という規則を作れば、それに留まらずに次々と規則を作ることになるでしょう。それがイスラエルの民がたどって来た律法主義という人間が陥りやすい性質なのです。

Ⅳ. 神と隣人のための安息日

安息日の規定というのは、十戒の中の第4戒で示されているものです。十の戒めの前半は神との関係に関する戒め、後半は隣人との関係に関する戒めですが、安息日の戒めは、その真ん中にあり前半と後半を繋いでいるのです。ですから安息日は神様との関係と、隣人との関係を豊かにするためにも重要なのです。それは人から強制されることではなく、自ら神と隣人との関係に向き合うことを神様は望んでおられるのです。特に安息日が他者との関係においても大切だと現わされているのが、今日の聖書箇所、出エジプト記の言葉です。
ブドウやオリーブの畑は七年目には放っておいて、実った果実は貧しい者たちに与えなさいというのが、7年をサイクルとした安息年の考え方です。そして安息日に関しても、七日目には農耕作業をする家畜も休めるし、そこで働く労働者も休むことができるのです。つまり、安息年や安息日があるからこそ、健康が守られ神を喜ぶことができる。神を喜ぶことこそ力になる、それが安息日に安息する意味です。そうして神様に喜んで頂くことができるのです。つまり信仰者として生きることは、しなければならないという規則に縛られるものではなくて喜びがあり力となるものです。
出エジプト23章の箇所は、ブドウやオリーブ畑といった農作業の中で安息日を守り、他者への配慮が求められています。それは創世記の天地創造の中で、人間にこの世を「治めよ」と命じられたことを思い出させます。人間はこの世の被造世界を治めることを託されていますが、動物や草花に安息を与えることも人間の役割であるのだと思いました。

Ⅴ. 神を喜ぶ被造世界

我が家では、バジルやトマトやシソといった野菜やバラも育てています。時々、草むしりをしなければならないのですが、知らない間にいろいろな雑草が生えてくるので草むしりをします。自分達が植えたもの以外は、雑草だと決めて、どんどんむしっていました。朝の連続テレビ「らんまん」で、主人公のモデルとなった牧野富太郎という植物学者が「雑草という草はない」と言っていたので、はっとしました。確かに草花にはそれぞれ名前があります。ドラマの中でも主人公は、誰も見向きもしない草花を見つけては名前を調べ、新種であれば名前をひたすら付けていくのです。雑草という草はありません、人間も「雑人」という人はいません。それぞれが神様に造られた貴重な存在です。家の周りに、いつのまにか知らない草花が茂っているのも、多様性があって、それもいいなと思うようになりました。バラのような華やかな植物もあれば、シダのような地味な植物もある。神様は、偉大なガーデナーのように、さまざまな草花が咲き誇り、神を喜ぶ被造世界を作られました。それらを治める者として人を造られた。罪の性質が残った不完全な被造世界ですが、私たち人間は神を喜び、草花は咲き誇り神の栄光を現わすために造られましたから、人間はその目的を実現する時にこそ、自分らしくあり、幸せであるのです。神様は自分の栄光を増し加えるために世界を創造されましたが、人間の幸せはその神様の目的に欠くことの出来ない重要な一部です。神に喜んでいただく事と、私たちが幸せになることは表裏一体です。その接点に律法という生き方があります。神を喜ぶことは、私達の力になる。安息日はそのために欠かせない一日です。隣人を喜び、神を喜ぶ安息の日を大切にしていきましょう。
お祈りを致します。