宴会心得帖

宮井岳彦牧師 説教要約
箴言25章6,7a節
ルカによる福音書14章7-14節 
2023年9月3日

Ⅰ. 安息日の祝いの宴、喜びの食事

主イエスがある家に招かれてお食事を召し上がったときの出来事です。1節を見ると、どうやら安息日の食事だったようです。安息日は、集まって一緒に食事をする日でした。一人で家の奥に閉じこもって何もせずにやり過ごす日ではない。聖書の舞台になった社会では日没から一日が始まります。ユダヤの社会の安息日は土曜日ですから、私たちで言うなら金曜日の夕方から安息日になる。ですから金曜日の夕ご飯が安息日の晩餐なのでしょう。その席での出来事なのか、あるいは土曜日の午餐での出来事なのかもしれません。安息日には料理はできないとされていたので、金曜日の昼のうちにキチンと準備をしておいて、それを安息日に皆で食べて楽しんだのです。主イエスもそのお食事は大切になさいました。安息日に何よりも大切なことは、神さまの救いの御業を思い起こすことです。そもそも安息日がなぜ生まれたのか。申命記を開くと、それは神がエジプトの地で奴隷であった自分たちを救ってくださったことを覚えるためでした。だから安息日の食事では神の救いを思い起こし、それを皆で一緒になって喜んだのです。
すごくいいなと思います。私たちも同じではないでしょうか。私たちは日曜日を私たちの安息日として「主の日」と呼び、キリストを礼拝します。キリストの救いの御業を一緒になって喜ぶ。教会の仲間と共に過ごし、家族と共に時間を過ごします。
一緒に食事をすることは、コロナ禍の三年間で大きな痛手をこうむりました。しかし教会にとっては失ってはいけない価値ですから、これからなお時間がかかったとしても、そうした時間を少しずつ取り戻していきましょう。主イエスはその喜びの食卓に共にいてくださいます。例えば主イエスは、町中から「罪人」と呼ばれた徴税人ザアカイと一緒に食事をなさいました。神の救いを一緒に喜んでくださったのです。
更に、救いの喜びを分かち合う食卓の中の究極の食卓は、聖餐です。私たちにとって聖餐がかけがえないのは、主イエスがいのちがけで招いてくださった食卓だからです。

Ⅱ. よく分かる譬え…?

今日、聖書日課に従って私たちに与えられているこの御言葉は、主イエスが囲む食卓での出来事を伝えています。同じ食卓に招待された人たちが上席を選んでいるのをご覧になって、一つの譬え話をなさいました。
「婚礼の祝宴に招待されたら、上席についてはならない」と主イエスは言っておられます。もっと名誉ある人が来たときに、席を譲って末席にまわる羽目になってしまうかもしれない。あなたは恥をかくことになる。むしろあなたは初めから末席に座ったら良い。そうすれば、後で招いた人が来て「友よ、もっと上席にお進みください」と言ってくれる。あなたは面目躍如だ。
一度読めばよく分かる話です。特に日本人にはよく分かる話のように思います。私たちもごく常識的な振る舞いとして、あまり上座には行かずにまずは下座に場所を探します。堂々と上座に鎮座まします、というのはあまり品の良い振る舞いではありません。私たちがごく常識的によく知っている作法です。この譬えはよく分かる。しかしだからこそよく分からない。なぜ、主イエスがわざわざそんなことをおっしゃるのか。なぜわざわざ聖書にそんなことが書いてあるのか。こんなマナー教室の心得帖のようなことが。そう考えると、よく分からなくなってしまいます。
この譬えは分かりやすい、特に日本人には分かりやすいと言ってこの話を始めました。改めて問わねばならないのかもしれません。本当に、これは分かりやすい譬え話なのでしょうか?

Ⅲ. 神の国の宴会の心得

今、息子と娘がお世話になっている小学校のPTAの会長をしています。それがきっかけになって、座間市教育委員会主催のとあるプロジェクトの委員を務めました。先日そのプロジェクトが無事に完了し、祝賀の宴席が設けられました。私も参加したのですが、席次表が考え抜かれて作られていたことに感心しました。上座にいるべき人が上座にいましたし、下座には市の職員の方たちがおられました。例えばそういう場で自分がどういう席をあてがわれているかということについて全く気にならないかと問われれば、私もちょっとは気になります。あるいは結婚披露宴の席次表や、そもそも誰が招待されているかとか、そのようなところでも同じような気持ちが働くのではないでしょうか。
つまり、私たちは自分では下座を選びながら、案外気にしているのです。自分がどういうふうに扱われているかを。自分では下座を選んでいても、人から軽く扱われたらムッとしますし、「おや?」と思うのではないでしょうか。そう考えると、このようなことも思います。私たちは、主イエスがここでおっしゃっているのとはもしかしたら少し違う意味で、しかし表面的には主イエスのおっしゃるように、競って下座を選んでいるのではないか。恥をかかないために。自分が軽く扱われないために。もっとちゃんと重んじてほしい、認めてほしいという期待を込めて、今は敢えて下座を選ぶということもするのではないでしょうか。しかし、この譬えに込めた主イエスのお心は、そういう事ではないのではないでしょうか。そうだとしたら、主イエスは何を願っておられるのでしょうか。
8節から11節を見ると、ある言葉が繰り返されていることに気付きます。「招待」あるいは「招く」という言葉です。この宴会に私たちを招いてくださった方がいる。もちろん、神さまです。そうだとすると、この宴会は神の国の宴会に違いありません。この譬えは単なる宴会の心得ではない。神の国の宴会の心得です。
それではその心得とは何か。それは11節です。「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」主イエスはそうおっしゃいます。この「へりくだる」という言葉ですが、これはもともと「川の上流に堰を作って水位を低くする」というのが原義なのだそうです。面白い言葉です。この言葉を思い巡らして、「ああそうか」と思いました。川の上流に堰を作ったら、その内、水位が低くなるどころか水は枯れてしまいます。まさにそういうことではないかと思います。私の下座を選ぶ謙遜には水がまだ残っています。自分を低く見せても、本当のところ、まだ自分にも良いところがある、見くびらないでほしいと思ってしまっている。水が枯れていません。ところが本当は自分は水が枯れているし、空っぽだし、空しい存在でしかないのです。
あまりそういうことは認めたくないので、自分の席はどこらへんかなと言うことばかり気にしてしまいます。まわりの人だけではなく、神さまも自分を軽んじていると不満を持つ。しかし本当は違う。上席か末席か、どころではない。本当は末席だってふさわしくない私です。神の国の宴会なんて本当は場違いです。それなのに、そんな私を招待してくださった方がおられるのです。主イエス・キリスト。この方が私を「友よ」と呼んで神の国の宴席に招いてくださった。「友よ、もっと上席にお進みください」と主が言ってくださる。「上席」というのは、主の側近くではないでしょうか。主イエスは、こんな私を友と呼び、ご自分の側に私の席を準備してくださっているのです。驚くべき事実です。

Ⅳ.キリストがあなたを招いています

今日は第一主日です。聖餐を祝う日曜日です。私たちは、キリストが招いてくださる宴席に招かれてここにやって来ました。聖餐は、神の国の宴会の前味(まえあじ)です。私たちはこの礼拝で、もうすでに、キリスト主催の宴会に参加し始めています。私たちがこれからあずかるパンと杯は、主イエスが私たちのために「友よ」と言って与えてくださるかけがえのないお体であり、血潮なのです。
オンラインで礼拝を献げている方もおられることでしょう。許されるならば、ぜひ、教会堂に足を運んでご一緒に聖餐に参与してください。それが適わないご事情があるならば、ぜひ教会に訪問聖餐を申し出てください。牧師たちは喜んで聖餐のために来てくださることでしょう。主が整えてくださった祝いの食卓に、あなたも招かれているのですから。
まだ洗礼を受けていない方は、聖餐の時に疎外感を覚えてイヤな気持ちになっているかもしれません。しかし、主イエスさまは他の誰よりもあなたに向かって「友よ」と招いておられます。主が準備してくださった上席、主イエスさまの側近くに、あなたこそが招かれています。ぜひとも今日から始まる洗礼準備会に出席してください。他の誰でもなく、キリストがあなたを招いておられます。