無からではなく、小さいものから
松本雅弘牧師 説教要約
出エジプト記16章28-35節
ヨハネによる福音書6章1-15節
2023年9月10日
Ⅰ. 「五千人の給食」の出来事の特殊性
今日、ご一緒に読み進めて行きます「五千人の給食の出来事」は、ヨハネだけではなく、全ての福音書記者がこぞって取り上げている主イエスの御業、出来事であり、ある意味で、主イエスがキリストであることを表すのに欠かすことの出来ない大切な出来事だという理解がそれぞれの福音書記者の心の内にあったのだと思います。
Ⅱ. 主イエスの心遣い
この時、主イエスが山に登られたのは、ひと目を避け、ひとり、また少数の弟子たちと共に静まりたいと思ったのでしょう。しかし群衆がそうはさせてくれない。「イエスが目を上げ、大勢の群衆がご自分の方に来るのを」ご覧になったのです。
こうした群衆に対し主イエスは、彼らを振り切って姿をくらましたでしょうか。いいえ、そのように書かれていません。主イエスは弟子のフィリポに言われた、というのです。「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」そうです。群衆がお腹を空かしている状態を心配しておられるのです。
ところが、これに対しフィリポは答えます。「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう。」「無理です」と答えたのです。一デナリオン、当時の労働者の日給です。仮に五千円とすると百万円。主イエスが求められたことがいかに現実離れして、不可能なことなのかを訴えたのです。
Ⅲ. 無からではなく、小さいものから
ところが、ここから不思議なことが起こりました。もう一人の弟子、アンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」と言って少年を主イエスの許に連れて来ます。
一般に、こうした時の発言は、「けれども」に続く後半に強調点が置かれるものです。そうです。ここでアンデレも「無理です」という答えをもって主イエスの許にやって来ているのです。ただ少し違う点もありました。主イエスの言葉からみ思いを感じった彼は〈何かできないだろうか…〉と思ったのでしょう。一生懸命考え、探した結果、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を見つけた。ただ、目の前にいる、こんな大勢の人たちにとっては何にもならない、そこで「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」と訴えたのだと思います。
私たちは、このアンデレの発言の背後に、少なくとも彼が、主イエスの投げかけに対して、彼なりに取り組んだ痕跡を見るように思うのです。ただこの小さな信仰、からし種一粒のような信仰を主イエスは見逃さなかった。この後、これを用いて大きなドラマを展開していかれるのです。
主イエスというお方は、私たちを主の働きの中に巻き込もうとしておられる。私は、創世記8章に出て来る、ソドムとゴモラを滅ぼしに行くその時に、「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と自問された、主なる神さまのことを思い出しました(創世記18:17)。
主イエスは神さまですから何をされるにも、人の手を借りずに、ゼロからでも働きを始め、そして完成することがお出来になります。お好きなように、しかも完璧にしてしまえば、それで済んでしまうでしょう。
ところが、ご自分だけやってしまうのではなく、私たちに関わりをもたせようとされる。誰かが何か一つでも、それがどんなに小さなことでも、主に差し出すことを求めておられるのではないでしょうか。それは喜びを共にするためです。
コロナ前に行っていた、みどり幼稚園の御餅つきのことを思い出しました。
私たち大人が餅つきを始めます。ある程度つき上がったところで子どもたちと交替します。すると自信満々に袖をまくりあげた子どもたちが「よいしょ!」という掛け声を受け、真っ白なお餅めがけ、杵を振り下ろします。もちろん、杵は重いですから先生のお手伝いが必要なのですが…。でも子どもたちは自分だけの力で餅つきをした気になっていて、みんなとても満足です。
主イエスは、このアンデレの言葉をお聞きになって動きはじめられました。「人々を座らせなさい」(10節)とおっしゃいます。パンを受け取ると感謝の祈りを唱え、割(さ)いて人々に分け与えられた。魚も同じようにして祝福して分け与えられました。すると、すべての人が満腹になったというのです。女性や子どもたちを数に入れたら一万人以上の人がいたのではないでしょうか。
しかも「欲しいだけ分け与えられた」(11節)と書かれています。まさに食べ放題!それだけではありません。残りを集めてみると、「十二の籠がいっぱいになった」(13節)。差し出す小さなものを用いて、主イエスは大きな出来事を起こしてくださったのです。
Ⅳ. 主イエスさまの眼差し、イエスさまのなさり方
今日の箇所を読む時に、ここに主イエスさまのやり方、神さまのものの動かし方がよく現れているように思うのです。
五つのパンと二匹の魚は、ちっぽけなちっぽけなものです。そして、しばしば、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」と常識が先行しがちです。でも、それが神の子、主イエス・キリストの手に渡るならば、大きく、大きく用いられる。
主イエスは教えられました。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32)。
昨日は、スチュワードシップバザーが行われました。売り上げ金が「声なき者の友」の輪と日本聾話学校に捧げられました。たぶんその働き全体を見る時に、私たちの差し出したものはほんの僅かだったかもしれません。
目を上げて世界を見ますと、ウクライナとロシアとの戦争に始まり、この物価高、そして、何が起こるか分からないという不安から、どこの国でも軍事費がどんどん膨らんでいます。これからどうしたらいいのか、見通しも立ちませんし、そうした問題の前に私たち本当に無力感を覚えてしまうことが多々あります。
まさにフィリポのように、最初から「足りません」と諦めてしまうこともできます。でも、もしかしたらアンデレにように、「こんなに大勢の人では、それが何になるか分かりませんが」と言いながら、まずは手にあるものを主イエスに差し出すことを、今日の聖書の箇所は私たちに教えているのではないでしょうか。
差し出した物を、どのように用い、どのようなことをなさるのかは、主イエスさまの側の責任。私たちは、弟子たち同様に「主イエスのお手伝い/神さまのお手伝い」に招かれているのではないでしょうか。
イエスさまだけでやってしまえば、スムーズに、もっとスマートに出来たに違いない。しかしその尊い働きに参加するようにと私たちを招き、神の国の働き人にしか味わうことの出来ない喜びを私たち与えようとしておられる。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15:11)と言われたことが実現するためです。
そして最後、一つのことに触れて終わりにしたいと思いますが、給食が終わった後に弟子たちに主は、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」(12節)と命じられました。主イエスは五つのパンと二匹の魚で大勢の人々のお腹を満腹させることのお出来になるお方ですから、いくらでもパンを増やすことが出来るでしょう。そのお方が「少しも無駄にならないように」とおっしゃるのです。
この時、主イエスが、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」(12節)と言われたのは、もしかしたら、「いっぱいあるなら少しくらい、無駄にしてもいいではないか」といった心の緩みに対する警告と共に、ご自身が貧しくなられ、実際に貧しい人々と連帯しておられた主イエスだからこそ、当時、日ごとのパンにありつくことの出来ない人々、いや、今も日ごとの糧を得ることが難しい人々が大勢おられる、そうした人々のことを決して忘れてはならないという思いから出た言葉だったのではないでしょうか。
そしてこうした一連の出来事に先立って、私たちの主イエスさまは、私たちが何をしようとしているかを知っておられるお方なのです。このお方を信頼し、この一週間も、このお方に導かれて歩んでいきましょう。
お祈りいたします。
