女性のはたらき
和田一郎副牧師 説教要約
ヨシュア記2章1-14節
フィリピの信徒への手紙4章1-3節
2023年7月23日
Ⅰ. フィリピ教会
フィリピの教会は使徒パウロが第二回伝道旅行の時に立ち寄り生れました。パウロに同行したのが、ルカ福音書と使徒言行録の著者ルカでした。
フィリピに滞在したパウロ一行は、リディアという女性を信仰に導きました。さらに牢獄に入れられた時の看守とその家族も信仰に導き洗礼を授けました。そこでパウロは、同行していたルカをこの町に残していったのです。ルカは約4年間フィリピの教会を堅く立たせる為に滞在しながら、贈り物を送ったりして積極的にパウロの働きを支えていました
Ⅱ. 教会の女性たち
今日の聖書箇所フィリピの手紙4章1節で、パウロにとってフィリピの人々が「私の喜び」だと言うほど親愛の思いをもっていました。ところが、2節ではエボディアとシンティケという、二人の女性の名前が出てくるのですが、この二人は不仲の状態にあったようなのです。2人は教会の中でも有力な信者であったようで、教会の運営にも影響を及ぼすものでした。パウロは「主にあって、同じ思いを抱きなさい」とそれぞれに勧めています。「主にあって、同じ思い」というのはキリストに対して同じ思いということです。キリストの十字架、キリストの犠牲、キリストのへりくだりです。すべての人間のために、へりくだって犠牲を負ってくださったキリストに倣って、互いに同じ思いを持つことを勧めているのです。
Ⅲ. 「神の似姿」男女を超えて
フィリピ教会は女性の信徒が多かったのでしょう。当時のキリスト教会は、社会の中で抑圧されていた女性たちが活躍できる、数少ない場所であったように思います。パウロも積極的に女性に声をかけて福音を伝えている様子が使徒言行録に記されております。パウロの女性に対する価値観は旧約聖書に基づいていて、ヨシュア記の遊女ラハブのように多くの女性たちが出てきます。マタイ福音書の最初のページのキリストの系図にも、四人の女性が記されていてラハブ、タマル、ルツ、ウリヤの妻バト・シェバの四人です。ラハブは遊女でしたが、信仰によって導かれてイスラエルの民に加えられました。ルツ記に出てくるルツは異邦人としてその信仰を受け継いだ人です。律法によってではなく、信仰によって救われるということが、ラハブやルツを通して分かりますバト・シェバもタマルも、皆ユダヤ人ではなく異邦人でありました。救いは一部の限られた者が独占することではありませんし、人間の弱さ至らなさによって、神様の働きが限定されることは決してありません。それどころか、四人の女性のように虐げられていた彼女たちの弱い所、至らなさを超えて用いて下さる神の意思を、そこに見ることができるのです。
1877年、アメリカのカンバーランド教会が日本に送ったJBヘール宣教師を送り出したのはアメリカの女性グループだったそうです。その後派遣された女性のドレナン宣教師は関西の教育分野で活躍されました。カンバーランド教会の日本宣教は当初から女性の働きがあったのです。
今、日本の社会でも女性の活躍が期待されている時代です。日本の政治分野での「ジェンダー・ギャップ指数」は世界147位と極めて低い。衆院議員の女性比率は10%。しかし神奈川県、大磯町の女性議員がここ10年50%を超えています。女性が増えて会議の時間が増えたそうですが、発言する時間は男性議員の方が多かった、つまり女性が半数を占めるようになって男性議員の意識が変わったということでした。少なかった質問者の割合も増えた、発言する人も増えて新しいことも『良さそうならとりあえずやってみよう』という動きが強まったそうです。「女性だから細やかなことに気づく」とか「男性だから大きな視野をもって考える」という規定の概念よりも、男女、年齢、生まれた国、一人一人の個性、多種多様な視点で議論できる環境になったということではないでしょうか。明治時代から日本の女性の社会進出に尽力したのは、外国から来たキリスト教の宣教師たちです。多くのミッションスクールの創設に尽力しました。アメリカのカンバーランド長老教会も、大阪女学院の創設に関わりました。
キリスト教会の女性たちの歴史は、私たちの中に働いて下さる神様の歴史であり、その歴史をしっかりと、正しく認識することは、今現在の課題や将来の指針を考える上でも大切なことだと思いました。キリストの系図に出てくるタマルも、ラハブも、ルツ、バト・シェバも、目立った活躍をする人ではなかった、異邦人として、ちょっと変わった者だと目られていた、しかし、そのような女性たちが神様に用いられたのです。
創世記には、私たち人間は、神様に似た者として創造されたとあります。私たちは、不完全ではありますが神に似たものです。そして男と女とに区別して造られました。神様ご自身の姿と似たものに造られた人間が、男と女とに造られたということは、神様の中に男も女も内包されているという理解を示しています。男であっても、女であっても神の似姿であることに違いはありません。男女という性別を超えて、人種が違っても、身体的な特徴が違っても、多様に異なった人々が、神の似姿として、それぞれ自分らしく生きられる世界が、聖書の世界観です。パウロはその視点で、宣教し、さまざまな人々を結ぶことができるのは、主イエス・キリストにあって可能なのだと伝えたのです。
パウロがフィリピの手紙4章1、2節の2箇所で「主にあって」と勧めている通りです。「主にあって、しっかりと立ちなさい」、「主にあって、同じ思いを抱きなさい」。反目し合っていた二人の女性が、へりくだって、互いを尊重するためには、主にあって、キリストにあって祈ることです。イエス様であれば、どうされるのか、キリストの十字架を見上げることで、同じ思いに至ることができると教えているのです。
Ⅳ. 「協力者」
3節、「なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします」と、パウロの勧めでは、彼女たち二人だけの問題にするのではなくて、彼女たちのために協力者が必要だと勧めています。この「協力者」というギリシャ語の言葉には「軛(くびき)で結ばれている仲間」という意味が含まれています。軛というのは、牛のような2頭の家畜の首に木の軛を付けて、重い物を引っ張って使うのです。重い軛を一緒に首に結び付けて作業をするのです。どちらかが怠っていたら前に進めません。一緒に重い物を担いで引っ張る人が「協力者」です。周りの者は、仲たがいをしている二人の女性を見て対岸の火事のように眺めていないで、一緒に軛という負担を負って欲しい、そうして彼女たちの和解を促して欲しいとパウロは勧めています。
今日はフィリピ教会にいる、二人の女性に関するパウロの教えを分かち合いました。
聖書の言う「赦し合いなさい」という教えは、道徳的な「仲良くしなさい」という教えではありません。「主にあって」できることです。それは、まず私たちの心の中にキリストが居てくださることを意味します。私たちの心、私たちの生活、相手と私の関係の中にキリストが居てくださる。相手を赦そうとする時、人を赦すことが目的なのではなくて、互いに赦し合うという関係を見いだすということです。それはイエス様がそこに居てくださるからできることです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。このイエス様と共に歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。


